芸術の山

芸術の山とは、制作者にとって真に有益な批評的ツールを具現化する媒体である。

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「『芸術の山』第0合のための往復メール書簡 田中功起⇔奥村雄樹」予告編

田中功起(芸術の山)と奥村雄樹により『芸術の山』第0合のための往復メール書簡(2005年12月から現在まで継続中)が進められている。両者とも、実作品の制作と並行して積極的に執筆活動を行なっている。その2人による密度の高いやりとりが積み重ねられ、すでに原稿用紙換算100枚に達しようとしている。

今回は、そのうちのごく一部を抜粋し、本編が掲載される第0合の発刊に先立つ予告編としてweb上に公開する。



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「日本国内で見る作品にももちろん感じることだが、特に欧米の「最近」の〈アート〉を見ると文脈(コンテクスト)に良くも悪くも依存しているタイプの作品がたくさんあるように思う。「芸術の山キャンプ」の中でも林卓行がトーマス・ヒルシュホーンなどに言及しながら哲学などに参照項を求める作品を批判的に紹介していた。たとえば思想や政治・文化状況、建築、そして美術史、もちろんサブカルチュアをここに含めてもいいが、そうしたものに依存し、そういうものなくしては成立しないもの、あるいはそれを知らずには理解ができないもの、そういう作品ばかりがやたらと目につく。とはいえ、この俺でさえ《ガンダム》を参照項に作品をつくったことがあるが、まあ、あれは副業的遊びと割り切ったのだが、批判は甘んじて受けるつもりだ。この手の作品の問題は、ヒッチコック版《サイコ》を24時間に引き延ばしたからといってそれは果たして「元ネタ」をどれだけ越えているのだろうか、というところにある。アーティストはそもそも何かを「作り出す」ことがもはやできないのだろうか。世界には無数の、それも良質な芸術が見切れないくらい存在することは確かだし、そこに何か「もう一つ」の新しいものを付け加えることに躊躇する気持ちも理解できる。だけれども、どうにもいま作られてる作品の多くには作り出すことへのあきらめというか、できないことへの開き直りというか、そういうものを感じる。これはとてもむなしく俺をさせる。だが文脈そのものを全く持たないものはおそらく原理的に作品として成立しないようにも思う。」

(2005年12月12日/田中功起(パリ)から奥村雄樹(東京)へのメールから抜粋)



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「で、ちょっと長嶋語になってしまうのだが、〈批評性〉とはその作品と向かい合った瞬間に一気にバンッ! とフィジカルに享受されるものであって、屁理屈的思考や知識の学習を要請する〈観念性〉とは正反対の位置にある。たとえば功起の旧作(わかりやすいので例として出させてくれ)の《Grace》。永遠にバウンドし続けるバスケットボール。この作品を〈理解〉するにあたって、屁理屈的思考や知識の学習は必要ではない。その〈芸術性〉は見た瞬間にバンッ!と僕の脳内に焼き付けられる。単純に言ってしまえば、「この世界/宇宙の物理法則に従っている以上、ボールはバウンドし続けることができない」ということへの〈言及〉においてそれは〈作品〉なのだと言える。それこそが僕が言う〈批評性〉なんだ。無数のマルチバースがあるとして、別の宇宙の住人が《Grace》を見たなら話は別だが、「バスケットボール」という固有の物体について知らない者(どっかの少数民族とか)であれ、この宇宙の住人に見られる限りにおいて、この作品は観念的思考を経ることなく成立するだろう(=バスケットボールという文脈に依存していない)。……となると、美術作品における〈批評性〉とは、その成立条件のひとつとして、見る者がその〈言及〉の対象について考えるまでもなく知っている必要があるということか。〈言及〉の対象についてまず知ることや考えることが要請される場合、どうしても〈観念性〉を経ることになる。」

(2006年2月23日/奥村雄樹(北京)から田中功起(パリ)へのメールから抜粋)



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「俺はときどきこうかんじることがある。奥村はないか? 作品制作の途中で〈工程〉をなにかの拍子でひとつとばしてしまう。しかしそのことによって結果的に作品が完成してしまう。作品自体はできあがっているわけだし、〈工程〉のひとつやふたつ、効率から考えたらすっとばしてもいいようにもおもうよな。でもそれがなんだかひっかかってしまうときがある。うしろめたい気になる。そこで何か重要なものを取りこぼしてしまったような気になるんだ。プロセスをシンプルにすればたしかに作品はでき上がる。俺は、でもそれじゃだめな気がするんだ。」

(2006年3月25日/田中功起(ウシュアイア)から奥村雄樹(ニューヨーク)へのメールから抜粋)



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「突然だけど、先日、ブルックリン美術館でウィリアム・ウェグマンの個展を見てきてさ。この人は犬を使った写真で有名だけど、それよりも初期の写真やビデオがとても興味深かった。詳細は省くけど、〈ネタ系〉作品との類似点を驚くほど多く感じたんだ。功起の作品との比較という点でいちばん面白かったのが、展示していたビデオ作品のひとつ《Ball and Can》。おすわりしている犬の足下、ちょうど口の下あたりに、缶詰の空缶が置いてある。画面の外から(ウェグマンによって)ゴルフボールが犬の口元に投げられる。犬はそれをキャッチして、少しカリカリ噛んで、ウェッと吐き出す。そのとき吐き出されたボールが缶にすっぽり入るまでひたすらこれが続く(なかなか成功しない)。これを見て、功起の《バケツとボール》を思い出した。どちらもひとつのボールが、それがぴったり入る程度の容器にすっぽり入るまでを追っているし、どちらも作者の〈制御〉を越えた〈偶然〉の物理現象を取り入れている。ただし、功起が複雑に構築された障害物とボールとの相互作用の予測不可能性/制御不可能性を利用しているのに対して、ウェグマンは〈動物〉の予測不可能性/制御不可能性を利用している! 少なくとも映像に偶然性を取り込む手つきにおいて、〈動物〉は〈物〉と変わりないってことに気づいたのは、個人的に収穫だった。」

(2006年4月25日/奥村雄樹(ニューヨーク)から田中功起(パリ)へのメールから抜粋)



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(続きは次回更新にて発表)
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ともよまたあおう

New York, 22/May/06
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