芸術の山

芸術の山とは、制作者にとって真に有益な批評的ツールを具現化する媒体である。

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【判断と評価】

 そもそもの初めから、「評価」できる者のみが「判断」を可能としている。判断の蓄積によって評価が可能になるのではない。「趣味(好み)」と「判断」の関係はちょうどその裏返しの関係に見えてくる。判断を裏付けるものが趣味であるのではないか、ということだ。しかし、実は「評価‐判断」と「趣味‐判断」の系はリンクしておらず、二つの「判断」の意味はまったく違う。「評価‐判断」の系は意識的な主体という態度をもって構築されている。そこでの「判断」はある意志によって選び取られるものである。一方、「趣味‐判断」の系は、いみじくもその言葉が由来するところの「味覚」における官能検査のように動物的な回路であり、そこでの「判断」は生理的条件反射に近い。芸術の快楽のひとつは観者を「パブロフの犬」にすることであるが、犬には「評価」はできようもない、ということである。
 そして、この「評価」の問題は制作者自体にも大きく関わる問題である。以前、ウィレム・デ・クーニングの未発表作が「発見」されたという報道があった。専門家が調査した結果、デ・クーニングの作品であると鑑定されたのだが、その後、実はその絵は猿に描かせたものだったことがわかった。最近の、ソーカル論文が引き起こした科学者と科学論者とのサイエンス・ウォーズと呼ばれる一連の論争を想起させる事件である。「猿とても興味深い絵を描く」(藤枝晃雄「「政治的利用の芸術」について」『武蔵野美術』114号、41ページ)。仮に「天才」というカテゴリーが、いわゆる「天然」を含意するものであるならば、猿は「天才」となりうる。人間で猿に勝る天然をもつ人間は定義として存在しないだろう。つまり、「天然」で勝負しても猿にはかなわない。だが、猿は作品を「自らの作品を見る(判定する)ことのできる人でもある芸術家として、吟味することはない」(同)のである。制作者は自らの動物的な判断にあまりにも依存してはいけない。人間が自然を超克できるとすれば、それは人間的であること以外にないからだ。
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