芸術の山

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【プロジェクトとワークショップ】 「3:経験していないことはわからない」

 仮によくよく練られたアイデアがあり地域住民や子どもたちとのプロジェクトやワークショプが成功したとする。そこにかけがえのない経験が生まれたとする。たとえばそれは教育実習で中学校・高校に行き実験授業を行ない生徒との交流のなかである種の幸福な瞬間が生まれ別れ際に涙するなんてことに似ている。だがその経験は同じときと場所を共有したからこそ成立するものだ。それはだれしものこころのなかにあるどこかしらで共有された甘い経験だが、蚊帳の外から見たらおきまりのよくあるお話でしかない。言うまでもなく現場で起きていることは現場でしかわからない。
 アーティストが安易なプレゼンテーションを展覧会と称し公にすることがある。プロジェクトやワークショプがありそれらのドキュメントをプレゼンテーションの下手なアーティストが行なえば、なにがそこで起きていたのかもわからない、そうしたことがある。とはいえその活動の成果=残りものと説明文や写真などで「なにが行なわれていたのかがわかった」としてもまずそもそもその経験は共有できないものだったのではないだろうか。だからこそ参加者との交流が必要だったのではないか。プロジェクトもワークショプも共有体験を通して参加者間に新しい経験を起こすことに醍醐味があるのならばその共有不可能な再現不可能なものを展示するという行為はどこに向かっているのだろうか。それはだれのためのことなのか。発表自体が参加者に向けられたごくごく内輪なものであるのならばわかる。そこでは共有した時間を参加者のなかにふたたびドキュメントを通して想起させることができるからだ。しかしそれが広く公にされるとき共有不可能な経験のプレゼンテーションにはそのアーティストやキュレイターにとっての何か別の思惑があるように思えてならない。その思惑としてのプレゼンテーションが結局のところ彼ら・彼女らの成果=キャリアにすぐさまむすびつくものなのかどうかはまた別の問題として、社会や他者との関係を築くことがひとつのテーマであったのならばそんな自分の利得にばかり労力をそそいでいる場合ではなくむしろ潔くプロジェクトやワークショプにまつわる本業の活動にのみいそしむべきではないのだろうか。(田中功起)
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