芸術の山

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【プロジェクトとワークショップ】 「2:魔法の言葉」

 地域社会を巻き込むかたちでなにかしらの芸術活動をはじめようとするとき「プロジェクト」と「ワークショップ」はアーティストにとってもキュレイターにとっても都合のいい魔法の言葉になる。なぜならその言葉には「地域住民が参加する」とか「地域社会のリサーチを踏まえたうえで」とか「子どもたちとともに」といった、社会とのつながりを重視した常套句を忍ばせることができるからだ。だがそもそもそれを望んでいるのはだれなのだろう。地域住民がリサーチを重ねたうえでひとりか複数のアーティストを招き入れることで成立したものならば話もわかる。成功しようとも失敗しようとも当事者の責任なのだから。あるいは仮に外部からの介入であろうがその地域社会が望むことを実現できるならばその行為にも意義がある。プロジェクトやワークショップのなかにはきっかけをつくったアーティストの個人名が結果として忘れられてしまうほどに地域に根付いたイベントもある。だが住民にとってはどこまでいってもそれらは望んだものではなく、大きなお世話であるのかもしれない。
 そうした意義や実用性の問題以前に、ここで問いたいのは活動成果の帰属先である。結局なにをやってもその成果はアーティストやキュレイターがすべて奪い取ってしまうのではないかという問題である。言葉巧みに社会性を謳い、地域社会と芸術を自らのキャリア・アップ(?)のために利用するアーティストやキュレイターも、無意識的な場合もあるにせよ、いる。その活動がアーティストやキュレイター個人のキャリアを強化するためだけの既成事実として使われるのならばそれは芸術の実用性というレトリックを自らの保身のために流用しているだけだ。はじまりがアーティストやキュレイターによる提案だったとしても多数の地域住民の参加によって活動が運営されさまざまな予想外の偶然をすべて受け入れながらその発案者の名前が消えてしまうまで継続したらもはやそれはだれのものでもないひとつの地域活動になる。つまり社会に必要なことを、たまたまアーティストが思いつくこともあるだろう。そこにアーティストのエゴはいらない。地域活動においてはアーティストやキュレイターはむしろ利用される役回りであり、その存在は見えないことが望ましいのだ。われわれはプロジェクトやワークショップという言葉を隠れ蓑にして地域社会を私物化してはならない。(田中功起)
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