芸術の山

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【プロジェクトとワークショップ】 「1:つまり何が目的なのか」

 生活のなかでは実用的なものが必要とされる。テレビ番組のなかで視聴率をとるもののひとつに生活の知恵をある種の実用的な裏技として紹介するものがある。それは目に見える実利的な効果・効能について話すことである。たとえば腰が痛いひとがいたとする。ならば腰に効く温泉があるから行ってみたらどうかと言うひとがいる。そうしたものと同じ効能である。ある絵画を見ていると数日間で視力がみるみるよくなりますよ、ということが言われたとする。効能という基準においてその絵画は温泉と同等になる。これはかなりうさん臭い事態だ。そもそも作品とは、たとえばそれがかたちなき「関係」のようなものを作品と呼ぶ場合であっても、作品それ自体が目的なのではないか。視力が回復するからとか自らの社会に対する立場を示すためとか明るい未来のためとか、そうした別の目的のために作品ひいては芸術を利用するという考えはどうもおかしい。
 こうした効能についての議論は、社会に役立つ芸術というものについて考えることに似ている。たとえばそれにリテラルに反応するものとして盛んなのがプロジェクトやワークショップをベースにした芸術活動だ。作品を販売可能なものとしてあつかうコマーシャルなアートワールドに対するオルタナティヴな芸術行為として、その活動は欧米だけでなく広く日本でも受け入れられている。地域社会に介入したり複数の人びとが参加したりフィールドワークなどの調査をもとにしたり、それらは継続した計画として考えられている。ただここでも目に見える実利的な効果・効能がすぐさま示されているわけではない。継続したものであるのだから結果はいつも先送りにされる。「つづきはまた来週!」というわけだ。もっとも実際に社会に役立つのかどうかという問いは不毛である。たまたま役立つものもあればそうでないものもある。あたり前だ。また社会貢献という目的のためにしかプロジェクトやワークショップという手法を使わないのであればそれはこの方法論をむしろ矮小化している。これらの行為には、それまでアーティスト個人のなかに閉じられていた制作という行為を広く他者に開放するという側面がある。いわば傍観者を当事者として制作の現場に巻き込んでしまうことだ。そこではもはや社会的効能を問いかける「だれか」もあるいは逆にその場に異物であったアーティスト自身もいない。参加者すべては新しい経験活動の主体となる。発せられる問いは問いつづけられ制作は継続していく。個人の経験は複数の参加者の経験へと拡張するだろう。そのときわれわれは実用性を芸術のなかに求めずプロジェクトやワークショップといった方法のなかにその活動それ自体を目的としたもうひとつの可能性を見つけることになる。(田中功起)
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