芸術の山

芸術の山とは、制作者にとって真に有益な批評的ツールを具現化する媒体である。

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【啓蒙型アート?】

 ギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』にならい、現代美術の紋切型辞典を編むとすれば、「モダニズム」という項目は、さしずめ《欧米中心主義の価値観に基づいた視覚性優位の時代遅れな芸術的立場》とでも説明されるだろう。そして、そんな時代遅れの立場を代表する表現のメディア(/メディウム/媒体)として、しばしば俎上にあげられるのが絵画、次が彫刻である。一方で、モダニズムを批判する立場で称揚される主な表現の「メディア」(現実的運用と理解に即して、ここでは「メディア」と呼ぶ。新聞・雑誌・放送・インターネット等の「メディア」や、メディア・アートにおける情報技術・先端技術・マルチメディア的技術を含意する「メディア」とは違う)が、インスタレーション、パフォーマンス、プロジェクト、ワークショップである。これら表現の「メディア」を担保する概念を、ここでは「開放性」というキーワードのヴァリエーションとして、以下の五類型をもって説明する。
(1)開放性 : 身体に関して
アートを抽象的で形而上学的な「視覚の檻」(という制度)から解放し、今までは捨象されてきた即物的「身体性」、触覚的経験として回復する。
(2)開放性 : 空間に関して
絵画や彫刻というメディアが内包する問題(例えば、絵画らしさの探究)に取り組む(媒体への還元)のではなく、それらのメディアを規定する枠組み(という制度)から空間的に表現を開放する。
(3)開放性 : 時間に関して
時間的に完結した結果としての作品(という制度)に対する現在進行形の「プロセス」、または一過性としての再現不可能な「事態」。
(4)開放性 : 作家性に関して
独創的なイマジネーションをもつ特権的主体としての作家(という制度)に対して、匿名的鑑賞者が参加する双方向的媒体としての作品。
(5)開放性 : 場に関して
非日常的経験を一般市民に与える芸術の殿堂=「美術館」(という制度)から、アートを日常的空間に開放し、現実に生きる「われわれ」(それは誰か?)の手に取り戻す。
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これら主に五つの質的類型の合体・折衷により、インスタレーション他、上記の、表現の新しい「メディア」は特色づけられる。このかぎりにおいて、モダニズムという美術制度に依拠する保守的観衆/美術関係者(作家・評論家・キュレイター等)を、表現メディアによって、結果的に、啓蒙していこうとする「メディア啓蒙型アート」と呼べる。
 ところで、このような「メディア」は、次の三つの問題を原理的にはらんでいる。
 第一に、これらの表現「メディア」が存立する条件に、「モダニズム」(という仮構の制度)を「仮想敵」として設定する必要があるということ(米ソ冷戦時代の日米安保条約のようなものであり、ソ連邦の解体後、日本にとって北朝鮮が新たな仮想敵として要請された構図と似ている)。すなわち近代以前、例えば、原始時代に、(当然のことながら)それらはアートとしての意味をもちえないというパラドックスに直面することになる。漫才に例えると、ボケはボケ自体で完結しているが、ツッコミはツッコミ自体では完結し得ない。対象を必要とする。ツッコム自体が完結するためには、ツッコミ即ちボケという変換を経なければならない。
 第二は、評価の問題である。例えば、「良いプロジェクト」あるいは「悪いワークショップ」とはどのような状態を指すのか。もし、この設問のハードルが高すぎるのなら、「成功したプロジェクト」や「失敗したワークショップ」でもいいのだが、その時の評価の基準はどこにあるのだろうか。評価をするためには、完結した「作品」としての表現の内部に評価基準を求めるか、空間/時間/状況的に開放された場/システムとしての表現の外部に評価基準を設ける必要がある。前者については第三の問題で述べるので、ここでは触れないが、後者の外部評価基準については、これを設けるためには当然、どこからが外部かという境界を定めないといけない。つまり、始まりと終わりである。しかし、現実的には、開放された状態に始まりも終わりも存在するわけがなく、概念的に外部を設定すれば、プロジェクトやワークショップ等もそのとたんに(プロジェクト等という)アドホックな「概念」となるのである。「概念」としてそれらを捉えた場合、参加者数や集客力等の評価基準で評価することは一応できる。しかし、この場合、ディズニーランドもインスタレーションになりうるし、スマトラ沖地震への募金もプロジェクトと呼べるし(むしろ、こっちが本家だ)、自転車の前カゴに「パトロール中」のプレートを付け町内を走り回る防犯ヴォランティア活動や足ツボマッサージ(マリー=アンジュ・ギュミノ?)もパフォーマンスであると捉えることが可能となるので、評価そのものの意味があるのかがはなはだ疑問である。完結した「作品」としてならば、これがインスタレーションであると名づけられるにしても、事後的にこれがインスタレーションであると名づけることは、(それは同時にインスタレーションではないから)意味がないのである。
 第三が、「メディア」としての表現の自律の問題である。インスタレーション、パフォーマンス、プロジェクト、ワークショップが表現「メディア」としてそれぞれ自律していないという立場をとる場合、第一と第二の問題からそれはアートではなくなり、意味としての目的(参加することに「意味」がある。また、それらの表現行為とそれ以外を分かつのが「意味づけ」の問題でしかなくなる)と時限的機能しかもちえない(原理的にそれは一度しか通用しないために、対象となるパイがあらかじめ物理的に決まっている場合には、機能し続けられる時間が限られている)。また、表現メディアとして自律する場合には、まさに超克するべきモダニズム的な「質」の問題が出現する。となると、これらのメディアは絵画や彫刻と同じ土俵に上がることになる。しかし、登場して間もないために、未だその可能性は未知数である。継続は力なり──始めたからにはこれからも続けてほしい……(積極的に応援している。相談にはいくらでものるつもりだ)。
 通常、モダニズムの大風呂敷の上では、以上のいわゆる「メディア」をめぐる議論と表現の「内容」をめぐる議論は切り離せないのであるが、不思議なことに(あるいは当然だが)、制度としてのモダニズムを肯定的に捉えない立場から発生する表現においても、「メディア」と「内容」は連動の仕方において奇妙に一致する。そこで次は「内容」に矛先を向け、現状を文脈化しつつ読解してみよう。
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「メディア啓蒙型アート」では、その特性を表現メディアの「開放性」というキーワードの五つのヴァリエーションとして説明した。一方で、それと補完的に、「内容」で啓蒙しようとするのが、「内容啓蒙型アート」である(もちろん、多くの場合、「内容啓蒙型アート」と「メディア啓蒙型アート」はある現象の別の側面でもあると言えるのだが、ここではひとまず前者のように表現「メディア」の問題に限定しない)。ここでいう「内容」とは、ある作品において表現される視点/思想、選択される対象/対象の描き方、その「作品」の意味/位置づけ、その作品とそれ自体/それ以外との関係性である。このような「内容」によって、どのように制度の啓蒙がはかられるかは、「相対化」というキーワードの五つのヴァリエーションによって説明できる。
(1)相対化 : 地域に関して
すでに冒頭で述べたように、モダニズム批判としての「欧米中心」はクリシェであり、当然の前提とされている。そのため、いかにしてこの「欧米(という地域)中心」の価値観を相対化(脱中心化)するかが問題となる。となると、欧米以外のアーティストの興味は地域的にドメスティックな対象や技法に向かっていくか、(実は同じことであるが)逆に地域的な差異を相対化するために蔡國強や森万里子のように「宇宙」的な表現へと向かう。ではこの場合に欧米のアーティストはどうするのか。欧米から見た地域的な「辺境」すなわち、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカへ向かい、地元住民とコミュニケートし、写真をとり、ショッピングをする(……というのが冗談ではないところにアートの懐の深さがある)。ただし、マイナー地域出自のアーティストでも同様の行動をとる場合もある。しかし、旧植民地に赴きコロニアル様式のそこそこ高級なホテルに宿泊し、エキゾチックなヴァカンスを楽しむアジア人という光景が日常化しようとも、「名誉白人」的心性でそのような行動をとっているわけではない(と思う。原理的には、どちらでもかまわないが……)。
(2)相対化 : 文化に関して
文化は地域的な差異以外に、宗教、人種、性、言語、資産・所得、社会階層、職業、教育などの差異によっても大きく規定される(いわゆるマルチカルチュラリズムは、多くの場合、地域的に規定される文化的差異を相対化し、共生していく術を探るものであるとされる。しかし、この考え方は、同国内/同地域内の文化的な差異も包摂していることは見過ごされがちである)。これら文化的差異に由来する価値観による表現の内容に優劣を付けるのではなく、互いの文化的コミュニティに根ざした(地に足のついた)内容に、(実際の活用上では)とくに意義を見出すのが、この立場であり、WASP(White Anglo-Saxon Protestant)の価値観を基準としているとラベリングされる「モダニズム」の美術観と対応させ、そのアンチテーゼとして提示される(ナンバー・ワンよりオンリー・ワン?)。なお、ここでマイノリティという言葉の意味についても述べておこう。現在、マイノリティはあるコミュニティでの少数者という意味と中心に対しての周縁に位置する者という二つのレヴェルの意味を持つ。つまり、世界的に見た場合、人口的にはアジア人はマジョリティであるが、文化的にはマイノリティなのである。
(3)相対化 : オリジナリティに関して
これは「メディア啓蒙型アート」における「開放性 : 作家性に関して」の別の発現である。つまり、前者ではそれが表現を担保するメディアとして発現し、メディアにおいて作家性を開放/消失させていこうとしたが、ここでは、無から有を作るようにオリジナルなイメージ/「内容」を生み出す想像力/創造力をもった近代的主体として「作家」が成立しないということが前提とされている(ちなみに、本家フローベールの『紋切型辞典』〔岩波文庫版、小倉孝誠訳〕の「想像力」の項にはすでに《自分にないときは、他人の有する想像力をけなすべきである》とある)。この場合、アプロプリエーションやシミュレーションの手法により、流通している既存のイメージを切り貼りして「オリジナル」ではないイメージを構成しようとすることが多い。だが、一方で、イメージの選択と操作のオリジナリティやプレゼンテーションにおいて、そのアーティストの作家性が浮かび上がるという矛盾した状況も存在している。
(4)相対化 : 様式に関して
近代美術における「様式(スタイル)」は、印象派(impressionism)、立体派(cubism)、超現実主義(surrealism)などのように「主義(ism)」という接尾辞を付された美術の動向と併行的な関係としてカテゴライズされ概括できると一般に理解されてきた。「様式」と「主義」の関係は、極論すると、作品の傾向としての「様式」を批評家などが総称して「主義」と呼び、使い始められていく場合と、作品制作の目的・方法・思想などが「主義」として先にあり、その主義に基づく概念枠組み内での「様式」が決まってくる場合がある。ところで、現在の日本では、近代の美術制度においては、批評家やジャーナリストの役割が前景化するとともに、前者から後者へとその関係性が移行してきたと批判的に捉えられている。そこで、これら諸様式を相対化し、一元的にカテゴライズされない内容の作品が要請されるようになった。以降、様式自体の折衷が行なわれ、作品の様式を次々と変更したり、近代以降の美術制度から排除されている領域(工芸〔装飾を含めて〕、広告、工業製品、マンガ、グラフィティ、アニメーション、テレビ等)からイメージを越境的に援用したり、キッチュなまでに過剰反覆もしくは過剰な中心化をはかることが作家のみならず批評家やジャーナリストの側からも推奨されている。現在では、実際にはある思想的な背景によって括られうる傾向や、さらにはある理念に基づく動向についてさえ、「主義」という言葉が用いられることはあまりない。
(5)相対化 : 歴史に関して
現象としての「アート」は現象としての社会経済/思想動向と密接に関係する。一九七〇年代末、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは『ポストモダンの条件』という書物を著した。遅れて八〇年代後半に日本でも紹介されバブル経済の活況、「ニューアカ」ブームの中で、近代の制度/心性を支えていた「大きな物語」は終わったともてはやされた。また、八〇年代末、アメリカの国際政治経済学者、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり?」という論文を発表した。この論文もその直後の東ヨーロッパの民主化、ソ連邦の解体、冷戦の終結の時流とともに日本で説得力をもって参照された。イデオロギー間(自由主義と、全体主義/共産主義)の弁証法的対立(闘争)をモティヴェーションとする「歴史」は終焉をむかえたという捉え方が、当時の日本の「知識人」コミュニティでは、当たり前の認識となった。そもそも二元論的なイデオロギー闘争の存在したことのない日本において、日本は歴史以後の世界を先取りしているという二重に転倒(「プレ」ではなく「ポスト」という転倒と、歴史が終わった後を歴史的に先取りしているという転倒)した自己解釈がされ、「大きな物語」が終わった後、メタな次元には統合されず、近代という正史からは無視されつづけた「小さな物語」のみが同時並行的に相対的に共存しているという見方が主流となった。現状肯定はルサンチマンの裏返しであるが、このような思潮転換の日本における受容は、ちょうど起こっていた「ニュー・ペインティング」などに見られるようなプライヴェートな物語的イメージによる自由な表現スタイルの作品を同時代的に支えることになった。以降、モダン/ポストモダン、芸術/社会、閉鎖/開放、歴史/現在、アブストラクト/フィギュラティヴ、メイン/サブ、強さ/弱さ、大きい/小さい、重い/軽い、厚い/薄い、大人/子ども、アカデミズム/大衆、理性/感情、中心/周縁、結果/プロセス、闘争/逃走……という言葉で象徴されるような仮想の対立軸が設定され、前者をモダニズム美術の特性として規定し批判しながら、一方で、後者の特性が露出する作品またはその特性を意識して制作をする作家を、ロラン・バルト、ドゥルーズ/ガタリ、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・デリダ、エドワード・サイードなどのいわゆる現代思想あるいはカルチュラル・スタディーズ、オリエンタリズム、ポスト・コロニアリズムなどの諸成果とキータームを巧みに利用した言説により「理論的」にバックアップし、現代日本(「歴史・以後(あるいはその裏返しとしての以前)」の世界)における文脈的な必然性を我田引水的に強調しながら、ひいては近代以後の美術制度自体を「啓蒙」していこうとする戦略をとる者たちが現われて、精力的に発言している(「声なき声を聴け」……という声しか聴こえてこない状況がもしあるとして、その声の主が他の声を聴こうとしないのならば、それはただの自己正当化の方便だ。〔結果的にせよ、自作自演の狂言誘拐に味をしめると、ミイラ取りがミイラになってしまうから、気をつけないといけない〕)。
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 以上の五種の類型は、既述の「メディアの開放性」の五類型と同様に、本来は切り離せるものではないとしよう。もちろん、状況に応じて、あるフェーズが前景化し、別のフェーズが後景化すると解釈するのが妥当なところだろうし、さらに、この「内容の相対化」の五類型と、既述の「メディアの開放性」の五類型がそもそも同じことを別の言い方で説明しているのに過ぎないという見方も当然あるだろう。しかし、ならばこそ、いうなれば、このような半透明な五本の縦糸と五本の横糸で織り込まれた織物が、現在の美術状況であると仮定し、あえて紋切型類型として図式化することに意義があると考えた。そして、教養主義的コンテクストに依存した現在のペダンティックな美術状況をコンテクストから「開放」し、また我田引水的紋切型によって構成される予定調和的コンテクスト(と、そこにフジツボのようにびっしりと貼り付く「啓蒙型アート」)を「相対」化するために、そのコンテクスト自体を紋切型類型として分節化し、コンテクスチュアルに再配置(「毒を喰らわば皿までも」?)することを試みたのがこの小文である(なお、かならずしも、ここでの類型をそのまま援用するものではないが、現在、縦五マス×横五マス=二五マス〔予定〕の図表を作図中であるので、機会がされば参照されたい)。
しつこいようだが、最後に念を押しておく。権威を担保にするシニカルな前衛に未来はない。(藤田六郎)
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