芸術の山

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【〈アート〉とその外部】

 街を覆う商業目的のヴィジュアル表現や、アウトサイダーの絵画・彫刻作品といった、従来〈アート〉の外部とされてきたものが、もはやそのパワーにおいて〈アート〉を凌駕しているという、一部のジャーナリストや批評家による主張がある。
 そう主張するひとたちは、最終的にどんな事態になることを期待しているのだろう? まずはお高くとまるな〈アート〉、というところなのだろう。難解な理論を振りかざすなどして、自身の手で芸術を〈高級な〉ものとして囲いこみながら、それを享受できることがまるである種の特権であるかのように振る舞う〈アート・ピープル〉たち。その自作自演のループを切断するべく、〈アートの外部〉が担ぎ出される。そんな高級で難解な〈アート〉よりも、もっと現実に溢れている、つまりだれにでも享受できる状態にありながら、まだそれとして見られていないもののほうが、〈アート〉の名にふさわしいではないか、というわけだ。
 なるほど、たしかに芸術がおぞましくもカタカナで〈アート〉とか、さらには〈現代アート〉などと呼ばれ、奇妙に特権的な地位──大多数のひとびとにしてみれば、それは「敬して遠ざける」といった体のものでしかないだろうが──を与えられている現在の事態は、歓迎できるものではない。いうまでもなく、その種の特権的な地位は、本来一部の優れた芸術作品が結果的に要求するものであって、すべての芸術作品に自明のものとしてあらかじめ与えられているものではないからだ。
 それでも、そのような主張を掲げる者たちにはやはり、〈アヴァンギャルド〉以降に立つ自分たちもまた〈アート〉という言語ゲームのプレイヤーなのだという自覚が、欠けている。すでに二〇世紀初頭、〈アート〉への反逆こそ〈アート〉と主張するあの運動があった以上、この者たちもまた潜在的な〈アート・ピープル〉なのだ。さらにこの者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、これまで権威として君臨してきた〈アート〉がその座を降りれば、空位が自動的に自分たちに転がり込んでくる、と考えているかのようだ。さもなければ、自分がいつでも古いものを追放する側=新しいものを提供する側にいたい(しかもそのために、ゲームの外部にいる人をけしかけたりさえする)というだけのことだろう。それをほんとうに追放したあとの事態を、待望しているわけではない。
 いま〈アート〉と呼ばれているものがその特権的な地位=玉座を放棄すれば、また別のなにかがそこに座るだろう。あるいはその〈アート〉は狡猾にもいったんその地位を離れたと見せて、一種の院政をひくことさえするだろう。
 それなら、もう一つ別の椅子を持ってくれば、あるいは、ここにも、そしてあそこにも椅子がある、そういえばいいのではないだろうか? ちょうどあの『ひとつにしてみっつの椅子』に見える、それぞれ同一でありながらまた異なる相にも分裂してあるような、あの椅子を。(林卓行)
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