芸術の山

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【日本のモニュメント】

 ここで俎上に上げるのは、公の事業として設置された彫刻、それも文字通りの〈記念碑〉として設置されたそれである。なぜにそれをと問われれば、まさしくその問いこそがこの観点の所以となる。日本におけるこの種の行政主導型の明々白々たるモニュメント(以降、便宜上括弧付けで「モニュメント」とする)は、現代美術を見つめる関係者にとって批判の対象であることが多い。
 日本のモニュメント草創期には、これら「モニュメント」と、同時代の美術認識にそれほど開きはなかった。それどころか、同時代の美術認識こそが「モニュメント」を牽引していたとも言える。日本で「モニュメント」設置が盛んになった明治期には、美術家による彫像がその端緒を切ったような節がある。これは、美術教育によって「彫刻」という概念が浸透したことに直接的な繋がりをもち、東京美術学校創設当初には、西洋式の人体表現を修得してもまったくそれを発揮する社会的な場がなかったというから、官が舞台を用意することによって、はじめて日本に「モニュメント」──特別な場所に特別な意味をもって設置される恒久的建造物──西洋的理念を反映した公共彫刻が登場するわけだ。
 では、分岐点はどこにあったのか。行政施策として都市空間に美術作品が設置されるようになった一九六〇年代、宇部や須磨を先鞭とする「モニュメント」発展期には、現在重要な作家として認識される、あるいは現在も現代美術の分野で活躍する作家がその制作者として名を連ねている。となると、文化行政ブームと「地方の時代」の流れの中で、いたるところで「彫刻のある街づくり」が事業化されていった一九七五年以降を問題のポイントとすることができよう。当時、野外彫刻展に参加した作家や足を運んだ美大生の言によれば、それはいまだ魅力的であったというから、戸外における作品創造や設置に対する意欲が完全に殺がれていたわけではない。しかしながら、当該の年代は欧米におけるコンセプチュアル・アートの波が日本に押し寄せた時期でもある。わかりやすくかたちになるからこそ文化行政として好まれた「モニュメント」設置とは相容れない動向の先端化は、少なからず現代美術の「モニュメント」離れを促したろう。さらに後、大きく後ろにずれ込んで流入したフォーマリズムも、その純粋還元志向において「モニュメント」の公共性(穿っていうなら政治性)とはくみしないものだった。
 実際のところ、もっとも大きな要因は大衆(社会)に対しての態度ではなかろうか。大衆(社会)を求めざれば「モニュメント」としての美術は無効に等しい。
 冒頭に述べた「モニュメント嫌い」は、自陣勢力が積極的にその現場にコミットしている場合には特別項となる。現代美術を街づくり、地域活性化の推進力とする動きをひとつの例として、広くパブリック・アートの名の下に種々の環境芸術が街を闊歩しだしたのは、現代美術家が大衆(社会)を欲し、一度手の切れた昔馴染みほど手垢もつかず、しがらみもなく、また美術の自尊心をも保全してくれるやり口を見出したからなのかもしれない。(山本さつき)
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