芸術の山

芸術の山とは、制作者にとって真に有益な批評的ツールを具現化する媒体である。

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美術の文脈:下界の見取り図

序:本稿の目的
 本稿は、いかにも複雑に語られる芸術の下界における美術の状況を、「作品/制作」という基本的な要素に軸足を置きながら読解していくものである。この読解を進める上で、われわれが留意するのは、以下の三点である。第一は、「作品/制作」をめぐる美術状況を、まずはさまざまに見える諸文脈が交差しあう複合体として捉え、絡まった糸球をときほどいていくように、一つひとつの文脈を解析しつつ「作品/制作」が作る現象をあらためて文脈上に位置づけることである。第二には、諸文脈をそれぞれ同時に扱う以上、互いの文脈は相対化されるということを前提とするため、諸文脈からは一定の距離をおいた仮想的な視点を設定し、そこからの記述を試みるということである。第三は、諸文脈をそれぞれあるキーワードで代表させて端的に名指し、そして、それらキーワードに代表される現象と文脈の関係を極端に要約、整理した上で、図式的に表現するというものである。
 以上の三点を採用することにより、本稿での問題提起は芸術一般をめぐる本質的な問いかけとはならない。作品と制作をめぐる美学的な理解も不可能となる。また、諸文脈中の微細にして大きいとされる差異も扱うことができない。文脈同士の複雑でパラレルな関係についても実証的には論じえないだろう。よって、そもそも本稿に収められた読解はいわゆる「批評」ではないのであるが、このような学術的な「誠実さ」を放棄し、致命的といえるクリシェ満載のレトリックを採用することにより、逆説的に、大きな利点が生まれるであろうことを想定した。その利点とは、美術状況を読み解く、ツールとしての実用性である。この考え方の前提には、前段落で述べたような現代の美術状況に対しての認識がある。現代美術の複雑さが既成事実になってしまっているのならば、その原因である文脈化のための文脈化を一度フリーズさせたところで、解釈しやすい状態へと解凍する必要がある。この解凍作業を経て、文脈は本来の目的を取り戻すのである。
 ここで本稿の内容的な見取り図を簡単に示そう。それぞれは構成としては連続しているが、全体は大きく三つのパートに分かれる。一つめは、美術における作品と観者の出会いの場所と形態、すなわち展示と美術館の問題を、歴史的な文脈を踏まえた上での現代的な問題として扱う。二つめは、現在の美術状況に多く見られる傾向を近代の美術制度を「啓蒙」しようとする「啓蒙型アート」として捉え、類型論として概括する。三つめのパートでは、新しい作品形式の可能性と限界および制作者がかかえる現在的な問題が扱われる。
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 われわれの目論みは本稿をもってすべて果たされたわけではない。ここで扱われていない「作品/制作」をめぐる状況に関しては稿をあらためて展開していく。(田中功起・林卓行・藤田六郎〔以上、芸術の山〕・山本さつき〔『REAR』編集部〕)



【新しい目的地 destination】
 すでに1815年、フランス芸術アカデミーの重鎮、カトルメール・ド=カンシーはいう。 続きを読む

【サイト・スペシフィシティの発生と変質】
 サイト・スペシフィシティという概念の背景となったアース・ワークは、一般に保存不可能であり、移動不可能であり、 続きを読む

【アウラとサイト・スペシフィック】
 サイト・スペシフィシティをクオリティのひとつとして明言する作家もいる現在、 続きを読む

【日本のモニュメント】
  ここで俎上に上げるのは、公の事業として設置された彫刻、それも文字通りの〈記念碑〉として設置されたそれである。 続きを読む

【スペクタクル社会のなかの〈国際展〉】
 ギィ・ドゥボールによる奇書、『スペクタクルの社会』を引くまでもなく、資本主義体制による社会のスペクタクル化は、 続きを読む

【〈アート〉とその外部】
 街を覆う商業目的のヴィジュアル表現や、アウトサイダーの絵画・彫刻作品といった、従来〈アート〉の外部とされてきたものが、 続きを読む

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【啓蒙型アート?】
 ギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』にならい、現代美術の紋切型辞典を編むとすれば、「モダニズム」という項目は、 続きを読む

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【だれが日常と言ったのか:テーマについて】
 自由に作るということは芸術家にとってひとつの理想であるにしても、 続きを読む

【映像インスタレーションという方法】
 作品制作とはそれぞれの局面において制約を受けることがある。 続きを読む

【プロジェクトとワークショップ】

「1:つまり何が目的なのか」
 生活のなかでは実用的なものが必要とされる。 続きを読む

「2:魔法の言葉」
 地域社会を巻き込むかたちでなにかしらの芸術活動をはじめようとするとき 続きを読む

「3:経験していないことはわからない」
 仮によくよく練られたアイデアがあり地域住民や子どもたちとのプロジェクトやワークショプが成功したとする。 続きを読む

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註:
本稿は、『芸術/批評』第2号(東信堂、2005年)に掲載された「美術の文脈:作品/制作の現在」を改題・再編集したものである。「芸術の山」ブログへの掲載にあたっては、山本さつきと東信堂の許可および協力を得た。両者に感謝する。
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芸術・制作・批評:山ごもりのための準備運動

 以下は、芸術・制作・批評に関係する言葉をキーワード化し解説したものである。水泳の前には、心臓から遠いところから水を浴び、身体を徐々に水温に慣らしていくように注意される。同様に、このキーワード解説集も山ごもりのための準備運動として捉え、活用してほしい。
 各ブロックは、美術批評に近接した外部要素についての項目(「美術理論と批評」など)、美術批評の内部要素について項目(「判断と評価」など)、美術批評と社会との関係の中に現れる項目(「ジャーナリズムと批評」など)の3つによってゆるやかにとりまとめられている。いずれから読んでもかまわず、またすべてを通読する必要もない。他の項目との関連や解説文の参照関係を各々の解説文中で示し、項目相互のリンクをできる限り心がけた。
 筆者らの最大の留意点は、批評においての、また批評に対しての「態度」にある。わたしたちは判断をし、評価をしないでいられることなどない。何か特別にとまでは言えないまでもちょっと入れ込んだものがある人なら分かるはずのことである。美術・芸術と宣い、頂上を極めるにはベースキャンプとしての文脈が必須であるかと思わせる高くそびえる「批評」とて、要領はそれほど変わらない。
 極端であることを恐れてはならない。まずは発話し自らの足場を築け。それを背負ったときに、はじめて「批評」への登坂路は拓かれる。(編集・執筆:田中功起+藤田六郎〔以上、芸術の山〕+山本さつき〔『REAR』制作室〕)

【批評の自律性】
 批評はそれが批評であることで批評として自律している。 続きを読む

【批評と評論】
 批評とは危機(クライシス)を読み解く目であり、自身の基準(クライテリア)を披瀝するものである。 続きを読む

【美術理論と批評】
 批評の眼目は、具体的な作品ないし制作活動の価値について判定を下すことにある。 続きを読む

【制作論と批評】
 批評や評論(→【批評と評論】)の中で、制作論は作品の構造分析をともなった方法論として語られる。 続きを読む

【作家によるテクスト】
 作家が書くテクストは、それがいかなる理由で書かれたものでさえ、構造的には作品の補完物あるいはひとつの参照項として機能する。 続きを読む

【牽引者としての批評】
 テクストの先導にしたがい制作をする作家を考えてみる。 続きを読む

【批評と同時代性:状況/現状と作家】
 有象無象を論じる同時代評論が抱える問題は、そこで書かれていた作家が表舞台から消えたあとも、 続きを読む

【批評の自律性2:批評の始まり】
 あらゆるものは相互作用によって生まれるが、それが生成する過程でその依存対象を越えて自律する可能性をもつ。 続きを読む

【趣味と判断】
 ごく一般的な意味での「趣味(好み)」(美学的な意味での詳細についてはここでは割愛する)が判断に結びつくことは批難し得ない。 続きを読む

【判断と評価】
 そもそもの初めから、「評価」できる者のみが「判断」を可能としている。 続きを読む

【客観主義と主観主義】
 特定の美術理論や美学などによって準備された客観的基準によって個々の対象を判断したり、 続きを読む

【批評と相対主義】
 もちろんあらゆる価値は相対的である。 続きを読む

【批評の自律性3:作品と言葉】
 優れた作品に値しない言葉、感心しない作品に過分な言葉。 続きを読む

【批評の成果】
 もしかすると、批評は存在せず、批評家がいるだけなのか。 続きを読む

【媒介者としての批評】
 作品、作家と受け手(社会)との繋ぎ手としての批評の機能。 続きを読む

【批評と同時代性2:批評の賞味期限】
 美術史に対し同時代性を強調される批評であるが、それは対象が現在であることに留まらない。 続きを読む

【ジャーナリズムと批評】
 ジャーナリズムとは、公正を期した視点でもってある特定の地域の出来事を報告することである。 続きを読む

【カタログ】
 カタログとは、構造上、展覧会のオープニングに配布されるものとして作られている。 続きを読む

【批評と市場】
 市場的価値を上げる評論はあるかもしれないが、 続きを読む

【批評の権力性】
 評価には、文化庁など公的機関はいうに及ばず、美術団体や美術賞など、 続きを読む

【批評の「現場」】
 古典的批評理解から言えば、それは何よりも作品との出会いの場である。 続きを読む

【批評と芸術】
 人はなぜ生きるのか、という問いかけに対して、普遍的な正答を出した者はいまだいない。 続きを読む

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註:
 本稿は、『REAR』第5号〔2004年、『REAR』制作室〕に掲載された「芸術・制作・批評――批評をめぐる断章」を改題・再編集したものである。掲載にあたっては、山本さつきの許可を得た。山本および『REAR』*1制作室(名古屋地域*2を中心に活動する芸術批評誌)に感謝する。

*1 【REAR】批評誌『REAR』創刊趣旨のひとつとして述べられたこと、 続きを読む

*2 【補足:名古屋地域の批評の歴史(批評誌の歴史)と現況】名古屋地域では、批評的活動における新聞記者、美術館人の役割が比較的大きかった。 続きを読む

【新しい目的地 destination】

 すでに1815年、フランス芸術アカデミーの重鎮、カトルメール・ド=カンシーはいう。さきごろ登場した美術館は、邸宅から礼拝堂までありとあらゆるところから、美術作品をかき集めてくる。だがそのことでかえって作品は、その本来の行き場destinationを失うことになるのだ、と。美術作品が「動産」であることが、徒になったわけだ。
 そして二一世紀の初頭、美術館について、ある雑誌記者はいう。それはもう服飾店と並ぶ現代建築のショウ・ケースで、ありきたりのツアーに倦んだツーリストたちのための、新しい目的地destinationなんだよ、と。
 スペイン北部の斜陽の町ビルバオから、北陸の古都金沢まで。各地に続々と出現しつつある美術館が、その建築としての自己像を喧伝し、また折に触れその建築に特化されたインスタレーション作品の所蔵を強調するのは、自らが〈サイト・スペシフィック〉でありたいという願望のあらわれだろう。
 作品ではなく、美術館それ自体が目的地destinationとなること。こうしてド=カンシー以来、コンスタブル、ヴァレリー、そしてアドルノと、すこしずつかたちを変えながら、けれど約二世紀間にわたって連綿と抱かれてきた美術館に対する不満──その無味乾燥な場所では作品は窒息してしまうという不満──はいま、思わぬかたちで解消されることになる。そしてかつておなじ不満から打倒美術館を叫び、そこを飛び出た〈サイト・スぺシフィック〉な作品という放蕩息子も、いまや妥協を知る大人となり、喜んで帰還するだろう。新しいdestinationとしての美術館。斜陽の町や古都がこの「不動産」に期待しているのは、作品ではなくその消費者を集めることである。(林卓行)

【サイト・スペシフィシティの発生と変質】

 サイト・スペシフィシティという概念の背景となったアース・ワークは、一般に保存不可能であり、移動不可能であり、従って収蔵不可能な作品形態をもっていた。無論、一九六〇年代中頃にアメリカで制作された諸々のアース・ワークは、アメリカ的であること──壮大なスケールをもち、ヨーロッパ的因習から解き放たれたもの、また、非消費的であること──美術館やギャラリーに詰め込まれた商品としての美術品に背を向けるもの──といった意思表明をもつものであったし、エコロジカルな思想や、古代遺跡に範をとるような土地の霊的な資質に喚起されるものであったことを付け加えなければならない。ただし、「展示」そして「コレクション」という美術館の機能を軸に考えた場合、アース・ワークは明らかにそれに造反するものであった。
 しかし、今日、サイト・スペシフィックな作品が多々見られることに理由を求めるなら、少なくとも「反制度」は大多数のそれにはならない。おそらくは、いま、そうした作品群を牽引しているのは、なによりも日常(社会)との、あるいは観衆(社会)との結びつきの点だろう。
 サイト・スペシフィックな作品の増加は、美術の(制作の/享受の)民主化と無縁ではない。サイト・スペシフィシティのもうひとつの道筋である「行為」は、アース・ワーク同様、「展示の場」に闘争を挑む動向であるが、ここに浮かび上がった「サイト」とは、行為者と鑑賞者という二つの変数によってつくられる「環境」であり、それを生成するための適切な媒介として選ばれたのが、多く日常生活の場であった。だが、行為者と鑑賞者の関係性、あるいは環境という性質にのみ着目する限りは、もちろん適切な場は限定されない。サイト・スペシフィシティという反制度的理念が、インスタレーションという制度内でも通用する手法に近いものに併呑されていく背後には、このような眼目の変化を見てとることもできる。
 一方、制度側に反逆児どもを受け入れる姿勢が生まれたことも、サイト・スペシフィシティの変質に加味されてしかるべき事項である。ここには、その所以はさておいても社会が現代美術に視線を投げはじめたという点、アヴァンギャルドの陳腐化と穏健化という点などこもごもの理由が考察可能であるが、少なくとも今日、サイト・スペシフィックな作品制作の場は社会の中に存在し、収蔵すらも可能なのだ。委託制作(=サイト性の強化)と恒久設置(=コレクション性→展示・公開性の強化)の二大オプションをつけることでサイト性にコレクション性を併せ持ち、それゆえに社会的価値との整合性を得やすい作品は、今日種々の開放性を求められる美術館にとって旨味ある対象である。
 美術館に寒風吹き荒ぶ時勢に、相当のハイリスクを伴うはずのこの種の作品収蔵、展示が盛んなのは、ハイリターンへの期待なのか。そのリスクを真っ当に負わないために、(誰が何に対して負うのかがことさらに不可解であるにしても)、どこにいっても似たような作家の似たようなサイト・スペシフィック(的)な作品があるという、妙なオチがつかねばよいのだが。(山本さつき)

【アウラとサイト・スペシフィック】

 サイト・スペシフィシティをクオリティのひとつとして明言する作家もいる現在、作品の価値としてのそれの認識は普遍化しているように見受けられる。この価値という言葉から容易に想像されるのは、「礼拝的価値」と「展示的価値」の対比であるが、いまや美術作品は、喪失した「礼拝的価値」に向けて再び舵を合わせているのだろうか。
 アース・ワークの代表的作家マイケル・ハイザーには、はっきりと古代回帰の思想をもつ側面があったし、展示の場(ノン・サイト)に「サイト」を招霊する試みを行ったロバート・スミッソンにも、少なからず「礼拝的価値」の復活を期した面がある。だからここでは、たとえわずかな時間で作品が塵芥に帰そうとも、「礼拝的価値」と不可分の関係にあるモニュメンタリティは、本質的には否定され得ない。アウラを求め(ここではかつてのような信仰と日常との関係は欠落気味ではあるが)、鑑賞者はまさしく〈巡礼〉に赴くのである。
 ところが、欧米中心主義に抗う今日の美術動向にとって、モニュメンタリティは忌みものも同然だ。アース・ワークはひとつの純粋化の在り方、つまりミニマリズムから派生するモダニズムの一形態であると規定し、これを批判するとき、この手のサイト・スペシフィシティはあからさまに反動的──場合によっては実に表面的に「時代遅れ」──なのだった。
 そもそもアウラは作品自体が醸し出すものではなく、いってみれば、それを感受する者に共通する、時代、地域、文化などに由来した価値観、信条である。仮に、広義でのサイト・スペシフィックな作品群が、「礼拝的価値」にその歴史的な正統性を求めるとするなら、これぞ本末転倒だからやめておくに越したことはない。
 当然ながら、「礼拝的価値」「展示的価値」は、本来、複製性をめぐっての価値体系であるから、関係性はあるにせよ〈場〉のみを焦点化した議論には不向きである。「特権的価値」に対する「公共的価値」だとか「共生的価値」とでもいうべきものを付け加えない限り、今日のサイト・スペシフィシティの価値化を云々することはできない。(山本さつき)

【日本のモニュメント】

 ここで俎上に上げるのは、公の事業として設置された彫刻、それも文字通りの〈記念碑〉として設置されたそれである。なぜにそれをと問われれば、まさしくその問いこそがこの観点の所以となる。日本におけるこの種の行政主導型の明々白々たるモニュメント(以降、便宜上括弧付けで「モニュメント」とする)は、現代美術を見つめる関係者にとって批判の対象であることが多い。
 日本のモニュメント草創期には、これら「モニュメント」と、同時代の美術認識にそれほど開きはなかった。それどころか、同時代の美術認識こそが「モニュメント」を牽引していたとも言える。日本で「モニュメント」設置が盛んになった明治期には、美術家による彫像がその端緒を切ったような節がある。これは、美術教育によって「彫刻」という概念が浸透したことに直接的な繋がりをもち、東京美術学校創設当初には、西洋式の人体表現を修得してもまったくそれを発揮する社会的な場がなかったというから、官が舞台を用意することによって、はじめて日本に「モニュメント」──特別な場所に特別な意味をもって設置される恒久的建造物──西洋的理念を反映した公共彫刻が登場するわけだ。
 では、分岐点はどこにあったのか。行政施策として都市空間に美術作品が設置されるようになった一九六〇年代、宇部や須磨を先鞭とする「モニュメント」発展期には、現在重要な作家として認識される、あるいは現在も現代美術の分野で活躍する作家がその制作者として名を連ねている。となると、文化行政ブームと「地方の時代」の流れの中で、いたるところで「彫刻のある街づくり」が事業化されていった一九七五年以降を問題のポイントとすることができよう。当時、野外彫刻展に参加した作家や足を運んだ美大生の言によれば、それはいまだ魅力的であったというから、戸外における作品創造や設置に対する意欲が完全に殺がれていたわけではない。しかしながら、当該の年代は欧米におけるコンセプチュアル・アートの波が日本に押し寄せた時期でもある。わかりやすくかたちになるからこそ文化行政として好まれた「モニュメント」設置とは相容れない動向の先端化は、少なからず現代美術の「モニュメント」離れを促したろう。さらに後、大きく後ろにずれ込んで流入したフォーマリズムも、その純粋還元志向において「モニュメント」の公共性(穿っていうなら政治性)とはくみしないものだった。
 実際のところ、もっとも大きな要因は大衆(社会)に対しての態度ではなかろうか。大衆(社会)を求めざれば「モニュメント」としての美術は無効に等しい。
 冒頭に述べた「モニュメント嫌い」は、自陣勢力が積極的にその現場にコミットしている場合には特別項となる。現代美術を街づくり、地域活性化の推進力とする動きをひとつの例として、広くパブリック・アートの名の下に種々の環境芸術が街を闊歩しだしたのは、現代美術家が大衆(社会)を欲し、一度手の切れた昔馴染みほど手垢もつかず、しがらみもなく、また美術の自尊心をも保全してくれるやり口を見出したからなのかもしれない。(山本さつき)

【スペクタクル社会のなかの〈国際展〉】

 ギィ・ドゥボールによる奇書、『スペクタクルの社会』を引くまでもなく、資本主義体制による社会のスペクタクル化は、なお継続して進行中である。これに抗おうとする芸術家たちは多くの場合、たとえばミニマリズムのような造形的に洗練された形式を拒否することで、その抵抗の意志を示そうとする。いっぽう、いまや欧米以外の各地でも開かれるようになった〈国際展〉は、その種の作品に積極的に展示場所を提供するだろう。そうしなければ欧米支配による旧来の国際展との差別化が図れないし、なにより、その開催地で〈民主化〉が完遂されたことの証明として行われるそれら〈国際展〉は、その成り立ちからいっても〈民主的〉であることが明瞭な作品を展示するほかないからだ。その結果、かつてのアジ・ビラを思い起こさせるテキストの直截なプリント・アウト、日用品、廃品などをむやみやたらと──正確にはそう見えるように──配したインスタレーション作品が、毎年世界のどこかで話題を呼ぶことになる。
 だがこれらを作り、好んで展示する者たちはまた、よく忘れてしまってもいる。〈スペクタクルの社会〉では、反スペクタクルを目指すその種の振る舞いまでもが、まさにスペクタクルとして消費されるだろう。いかにも粗野なそれらの作品は、この者たちが忌避して止まない西欧的な〈高級芸術〉の皿に香る、格好の〈野趣〉なのだ。
 だからその種の作品は、〈高級芸術〉の地位を一時的に揺るがせはするだろうが、最終的にはむしろその地位を強化することになるだろう。ドゥボールがいった、あらゆるものがスペクタクルとして消費され、そのいっぽうでほんとうに問題にすべきことがらが隠蔽される危険というのは、まさにそういうことである。(林卓行)

【〈アート〉とその外部】

 街を覆う商業目的のヴィジュアル表現や、アウトサイダーの絵画・彫刻作品といった、従来〈アート〉の外部とされてきたものが、もはやそのパワーにおいて〈アート〉を凌駕しているという、一部のジャーナリストや批評家による主張がある。
 そう主張するひとたちは、最終的にどんな事態になることを期待しているのだろう? まずはお高くとまるな〈アート〉、というところなのだろう。難解な理論を振りかざすなどして、自身の手で芸術を〈高級な〉ものとして囲いこみながら、それを享受できることがまるである種の特権であるかのように振る舞う〈アート・ピープル〉たち。その自作自演のループを切断するべく、〈アートの外部〉が担ぎ出される。そんな高級で難解な〈アート〉よりも、もっと現実に溢れている、つまりだれにでも享受できる状態にありながら、まだそれとして見られていないもののほうが、〈アート〉の名にふさわしいではないか、というわけだ。
 なるほど、たしかに芸術がおぞましくもカタカナで〈アート〉とか、さらには〈現代アート〉などと呼ばれ、奇妙に特権的な地位──大多数のひとびとにしてみれば、それは「敬して遠ざける」といった体のものでしかないだろうが──を与えられている現在の事態は、歓迎できるものではない。いうまでもなく、その種の特権的な地位は、本来一部の優れた芸術作品が結果的に要求するものであって、すべての芸術作品に自明のものとしてあらかじめ与えられているものではないからだ。
 それでも、そのような主張を掲げる者たちにはやはり、〈アヴァンギャルド〉以降に立つ自分たちもまた〈アート〉という言語ゲームのプレイヤーなのだという自覚が、欠けている。すでに二〇世紀初頭、〈アート〉への反逆こそ〈アート〉と主張するあの運動があった以上、この者たちもまた潜在的な〈アート・ピープル〉なのだ。さらにこの者たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、これまで権威として君臨してきた〈アート〉がその座を降りれば、空位が自動的に自分たちに転がり込んでくる、と考えているかのようだ。さもなければ、自分がいつでも古いものを追放する側=新しいものを提供する側にいたい(しかもそのために、ゲームの外部にいる人をけしかけたりさえする)というだけのことだろう。それをほんとうに追放したあとの事態を、待望しているわけではない。
 いま〈アート〉と呼ばれているものがその特権的な地位=玉座を放棄すれば、また別のなにかがそこに座るだろう。あるいはその〈アート〉は狡猾にもいったんその地位を離れたと見せて、一種の院政をひくことさえするだろう。
 それなら、もう一つ別の椅子を持ってくれば、あるいは、ここにも、そしてあそこにも椅子がある、そういえばいいのではないだろうか? ちょうどあの『ひとつにしてみっつの椅子』に見える、それぞれ同一でありながらまた異なる相にも分裂してあるような、あの椅子を。(林卓行)

【啓蒙型アート?】

 ギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』にならい、現代美術の紋切型辞典を編むとすれば、「モダニズム」という項目は、さしずめ《欧米中心主義の価値観に基づいた視覚性優位の時代遅れな芸術的立場》とでも説明されるだろう。そして、そんな時代遅れの立場を代表する表現のメディア(/メディウム/媒体)として、しばしば俎上にあげられるのが絵画、次が彫刻である。一方で、モダニズムを批判する立場で称揚される主な表現の「メディア」(現実的運用と理解に即して、ここでは「メディア」と呼ぶ。新聞・雑誌・放送・インターネット等の「メディア」や、メディア・アートにおける情報技術・先端技術・マルチメディア的技術を含意する「メディア」とは違う)が、インスタレーション、パフォーマンス、プロジェクト、ワークショップである。これら表現の「メディア」を担保する概念を、ここでは「開放性」というキーワードのヴァリエーションとして、以下の五類型をもって説明する。
(1)開放性 : 身体に関して
アートを抽象的で形而上学的な「視覚の檻」(という制度)から解放し、今までは捨象されてきた即物的「身体性」、触覚的経験として回復する。
(2)開放性 : 空間に関して
絵画や彫刻というメディアが内包する問題(例えば、絵画らしさの探究)に取り組む(媒体への還元)のではなく、それらのメディアを規定する枠組み(という制度)から空間的に表現を開放する。
(3)開放性 : 時間に関して
時間的に完結した結果としての作品(という制度)に対する現在進行形の「プロセス」、または一過性としての再現不可能な「事態」。
(4)開放性 : 作家性に関して
独創的なイマジネーションをもつ特権的主体としての作家(という制度)に対して、匿名的鑑賞者が参加する双方向的媒体としての作品。
(5)開放性 : 場に関して
非日常的経験を一般市民に与える芸術の殿堂=「美術館」(という制度)から、アートを日常的空間に開放し、現実に生きる「われわれ」(それは誰か?)の手に取り戻す。
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これら主に五つの質的類型の合体・折衷により、インスタレーション他、上記の、表現の新しい「メディア」は特色づけられる。このかぎりにおいて、モダニズムという美術制度に依拠する保守的観衆/美術関係者(作家・評論家・キュレイター等)を、表現メディアによって、結果的に、啓蒙していこうとする「メディア啓蒙型アート」と呼べる。
 ところで、このような「メディア」は、次の三つの問題を原理的にはらんでいる。
 第一に、これらの表現「メディア」が存立する条件に、「モダニズム」(という仮構の制度)を「仮想敵」として設定する必要があるということ(米ソ冷戦時代の日米安保条約のようなものであり、ソ連邦の解体後、日本にとって北朝鮮が新たな仮想敵として要請された構図と似ている)。すなわち近代以前、例えば、原始時代に、(当然のことながら)それらはアートとしての意味をもちえないというパラドックスに直面することになる。漫才に例えると、ボケはボケ自体で完結しているが、ツッコミはツッコミ自体では完結し得ない。対象を必要とする。ツッコム自体が完結するためには、ツッコミ即ちボケという変換を経なければならない。
 第二は、評価の問題である。例えば、「良いプロジェクト」あるいは「悪いワークショップ」とはどのような状態を指すのか。もし、この設問のハードルが高すぎるのなら、「成功したプロジェクト」や「失敗したワークショップ」でもいいのだが、その時の評価の基準はどこにあるのだろうか。評価をするためには、完結した「作品」としての表現の内部に評価基準を求めるか、空間/時間/状況的に開放された場/システムとしての表現の外部に評価基準を設ける必要がある。前者については第三の問題で述べるので、ここでは触れないが、後者の外部評価基準については、これを設けるためには当然、どこからが外部かという境界を定めないといけない。つまり、始まりと終わりである。しかし、現実的には、開放された状態に始まりも終わりも存在するわけがなく、概念的に外部を設定すれば、プロジェクトやワークショップ等もそのとたんに(プロジェクト等という)アドホックな「概念」となるのである。「概念」としてそれらを捉えた場合、参加者数や集客力等の評価基準で評価することは一応できる。しかし、この場合、ディズニーランドもインスタレーションになりうるし、スマトラ沖地震への募金もプロジェクトと呼べるし(むしろ、こっちが本家だ)、自転車の前カゴに「パトロール中」のプレートを付け町内を走り回る防犯ヴォランティア活動や足ツボマッサージ(マリー=アンジュ・ギュミノ?)もパフォーマンスであると捉えることが可能となるので、評価そのものの意味があるのかがはなはだ疑問である。完結した「作品」としてならば、これがインスタレーションであると名づけられるにしても、事後的にこれがインスタレーションであると名づけることは、(それは同時にインスタレーションではないから)意味がないのである。
 第三が、「メディア」としての表現の自律の問題である。インスタレーション、パフォーマンス、プロジェクト、ワークショップが表現「メディア」としてそれぞれ自律していないという立場をとる場合、第一と第二の問題からそれはアートではなくなり、意味としての目的(参加することに「意味」がある。また、それらの表現行為とそれ以外を分かつのが「意味づけ」の問題でしかなくなる)と時限的機能しかもちえない(原理的にそれは一度しか通用しないために、対象となるパイがあらかじめ物理的に決まっている場合には、機能し続けられる時間が限られている)。また、表現メディアとして自律する場合には、まさに超克するべきモダニズム的な「質」の問題が出現する。となると、これらのメディアは絵画や彫刻と同じ土俵に上がることになる。しかし、登場して間もないために、未だその可能性は未知数である。継続は力なり──始めたからにはこれからも続けてほしい……(積極的に応援している。相談にはいくらでものるつもりだ)。
 通常、モダニズムの大風呂敷の上では、以上のいわゆる「メディア」をめぐる議論と表現の「内容」をめぐる議論は切り離せないのであるが、不思議なことに(あるいは当然だが)、制度としてのモダニズムを肯定的に捉えない立場から発生する表現においても、「メディア」と「内容」は連動の仕方において奇妙に一致する。そこで次は「内容」に矛先を向け、現状を文脈化しつつ読解してみよう。
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「メディア啓蒙型アート」では、その特性を表現メディアの「開放性」というキーワードの五つのヴァリエーションとして説明した。一方で、それと補完的に、「内容」で啓蒙しようとするのが、「内容啓蒙型アート」である(もちろん、多くの場合、「内容啓蒙型アート」と「メディア啓蒙型アート」はある現象の別の側面でもあると言えるのだが、ここではひとまず前者のように表現「メディア」の問題に限定しない)。ここでいう「内容」とは、ある作品において表現される視点/思想、選択される対象/対象の描き方、その「作品」の意味/位置づけ、その作品とそれ自体/それ以外との関係性である。このような「内容」によって、どのように制度の啓蒙がはかられるかは、「相対化」というキーワードの五つのヴァリエーションによって説明できる。
(1)相対化 : 地域に関して
すでに冒頭で述べたように、モダニズム批判としての「欧米中心」はクリシェであり、当然の前提とされている。そのため、いかにしてこの「欧米(という地域)中心」の価値観を相対化(脱中心化)するかが問題となる。となると、欧米以外のアーティストの興味は地域的にドメスティックな対象や技法に向かっていくか、(実は同じことであるが)逆に地域的な差異を相対化するために蔡國強や森万里子のように「宇宙」的な表現へと向かう。ではこの場合に欧米のアーティストはどうするのか。欧米から見た地域的な「辺境」すなわち、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカへ向かい、地元住民とコミュニケートし、写真をとり、ショッピングをする(……というのが冗談ではないところにアートの懐の深さがある)。ただし、マイナー地域出自のアーティストでも同様の行動をとる場合もある。しかし、旧植民地に赴きコロニアル様式のそこそこ高級なホテルに宿泊し、エキゾチックなヴァカンスを楽しむアジア人という光景が日常化しようとも、「名誉白人」的心性でそのような行動をとっているわけではない(と思う。原理的には、どちらでもかまわないが……)。
(2)相対化 : 文化に関して
文化は地域的な差異以外に、宗教、人種、性、言語、資産・所得、社会階層、職業、教育などの差異によっても大きく規定される(いわゆるマルチカルチュラリズムは、多くの場合、地域的に規定される文化的差異を相対化し、共生していく術を探るものであるとされる。しかし、この考え方は、同国内/同地域内の文化的な差異も包摂していることは見過ごされがちである)。これら文化的差異に由来する価値観による表現の内容に優劣を付けるのではなく、互いの文化的コミュニティに根ざした(地に足のついた)内容に、(実際の活用上では)とくに意義を見出すのが、この立場であり、WASP(White Anglo-Saxon Protestant)の価値観を基準としているとラベリングされる「モダニズム」の美術観と対応させ、そのアンチテーゼとして提示される(ナンバー・ワンよりオンリー・ワン?)。なお、ここでマイノリティという言葉の意味についても述べておこう。現在、マイノリティはあるコミュニティでの少数者という意味と中心に対しての周縁に位置する者という二つのレヴェルの意味を持つ。つまり、世界的に見た場合、人口的にはアジア人はマジョリティであるが、文化的にはマイノリティなのである。
(3)相対化 : オリジナリティに関して
これは「メディア啓蒙型アート」における「開放性 : 作家性に関して」の別の発現である。つまり、前者ではそれが表現を担保するメディアとして発現し、メディアにおいて作家性を開放/消失させていこうとしたが、ここでは、無から有を作るようにオリジナルなイメージ/「内容」を生み出す想像力/創造力をもった近代的主体として「作家」が成立しないということが前提とされている(ちなみに、本家フローベールの『紋切型辞典』〔岩波文庫版、小倉孝誠訳〕の「想像力」の項にはすでに《自分にないときは、他人の有する想像力をけなすべきである》とある)。この場合、アプロプリエーションやシミュレーションの手法により、流通している既存のイメージを切り貼りして「オリジナル」ではないイメージを構成しようとすることが多い。だが、一方で、イメージの選択と操作のオリジナリティやプレゼンテーションにおいて、そのアーティストの作家性が浮かび上がるという矛盾した状況も存在している。
(4)相対化 : 様式に関して
近代美術における「様式(スタイル)」は、印象派(impressionism)、立体派(cubism)、超現実主義(surrealism)などのように「主義(ism)」という接尾辞を付された美術の動向と併行的な関係としてカテゴライズされ概括できると一般に理解されてきた。「様式」と「主義」の関係は、極論すると、作品の傾向としての「様式」を批評家などが総称して「主義」と呼び、使い始められていく場合と、作品制作の目的・方法・思想などが「主義」として先にあり、その主義に基づく概念枠組み内での「様式」が決まってくる場合がある。ところで、現在の日本では、近代の美術制度においては、批評家やジャーナリストの役割が前景化するとともに、前者から後者へとその関係性が移行してきたと批判的に捉えられている。そこで、これら諸様式を相対化し、一元的にカテゴライズされない内容の作品が要請されるようになった。以降、様式自体の折衷が行なわれ、作品の様式を次々と変更したり、近代以降の美術制度から排除されている領域(工芸〔装飾を含めて〕、広告、工業製品、マンガ、グラフィティ、アニメーション、テレビ等)からイメージを越境的に援用したり、キッチュなまでに過剰反覆もしくは過剰な中心化をはかることが作家のみならず批評家やジャーナリストの側からも推奨されている。現在では、実際にはある思想的な背景によって括られうる傾向や、さらにはある理念に基づく動向についてさえ、「主義」という言葉が用いられることはあまりない。
(5)相対化 : 歴史に関して
現象としての「アート」は現象としての社会経済/思想動向と密接に関係する。一九七〇年代末、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは『ポストモダンの条件』という書物を著した。遅れて八〇年代後半に日本でも紹介されバブル経済の活況、「ニューアカ」ブームの中で、近代の制度/心性を支えていた「大きな物語」は終わったともてはやされた。また、八〇年代末、アメリカの国際政治経済学者、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり?」という論文を発表した。この論文もその直後の東ヨーロッパの民主化、ソ連邦の解体、冷戦の終結の時流とともに日本で説得力をもって参照された。イデオロギー間(自由主義と、全体主義/共産主義)の弁証法的対立(闘争)をモティヴェーションとする「歴史」は終焉をむかえたという捉え方が、当時の日本の「知識人」コミュニティでは、当たり前の認識となった。そもそも二元論的なイデオロギー闘争の存在したことのない日本において、日本は歴史以後の世界を先取りしているという二重に転倒(「プレ」ではなく「ポスト」という転倒と、歴史が終わった後を歴史的に先取りしているという転倒)した自己解釈がされ、「大きな物語」が終わった後、メタな次元には統合されず、近代という正史からは無視されつづけた「小さな物語」のみが同時並行的に相対的に共存しているという見方が主流となった。現状肯定はルサンチマンの裏返しであるが、このような思潮転換の日本における受容は、ちょうど起こっていた「ニュー・ペインティング」などに見られるようなプライヴェートな物語的イメージによる自由な表現スタイルの作品を同時代的に支えることになった。以降、モダン/ポストモダン、芸術/社会、閉鎖/開放、歴史/現在、アブストラクト/フィギュラティヴ、メイン/サブ、強さ/弱さ、大きい/小さい、重い/軽い、厚い/薄い、大人/子ども、アカデミズム/大衆、理性/感情、中心/周縁、結果/プロセス、闘争/逃走……という言葉で象徴されるような仮想の対立軸が設定され、前者をモダニズム美術の特性として規定し批判しながら、一方で、後者の特性が露出する作品またはその特性を意識して制作をする作家を、ロラン・バルト、ドゥルーズ/ガタリ、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・デリダ、エドワード・サイードなどのいわゆる現代思想あるいはカルチュラル・スタディーズ、オリエンタリズム、ポスト・コロニアリズムなどの諸成果とキータームを巧みに利用した言説により「理論的」にバックアップし、現代日本(「歴史・以後(あるいはその裏返しとしての以前)」の世界)における文脈的な必然性を我田引水的に強調しながら、ひいては近代以後の美術制度自体を「啓蒙」していこうとする戦略をとる者たちが現われて、精力的に発言している(「声なき声を聴け」……という声しか聴こえてこない状況がもしあるとして、その声の主が他の声を聴こうとしないのならば、それはただの自己正当化の方便だ。〔結果的にせよ、自作自演の狂言誘拐に味をしめると、ミイラ取りがミイラになってしまうから、気をつけないといけない〕)。
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 以上の五種の類型は、既述の「メディアの開放性」の五類型と同様に、本来は切り離せるものではないとしよう。もちろん、状況に応じて、あるフェーズが前景化し、別のフェーズが後景化すると解釈するのが妥当なところだろうし、さらに、この「内容の相対化」の五類型と、既述の「メディアの開放性」の五類型がそもそも同じことを別の言い方で説明しているのに過ぎないという見方も当然あるだろう。しかし、ならばこそ、いうなれば、このような半透明な五本の縦糸と五本の横糸で織り込まれた織物が、現在の美術状況であると仮定し、あえて紋切型類型として図式化することに意義があると考えた。そして、教養主義的コンテクストに依存した現在のペダンティックな美術状況をコンテクストから「開放」し、また我田引水的紋切型によって構成される予定調和的コンテクスト(と、そこにフジツボのようにびっしりと貼り付く「啓蒙型アート」)を「相対」化するために、そのコンテクスト自体を紋切型類型として分節化し、コンテクスチュアルに再配置(「毒を喰らわば皿までも」?)することを試みたのがこの小文である(なお、かならずしも、ここでの類型をそのまま援用するものではないが、現在、縦五マス×横五マス=二五マス〔予定〕の図表を作図中であるので、機会がされば参照されたい)。
しつこいようだが、最後に念を押しておく。権威を担保にするシニカルな前衛に未来はない。(藤田六郎)

【だれが日常と言ったのか:テーマについて】

 自由に作るということは芸術家にとってひとつの理想であるにしても、自らで思っている以上にわれわれは自由ではない。芸術を取りまく環境は勝手気ままな「自由な」制作をさえひとつの流行として片づけてしまう。いやそもそも個人の素質の幅はそれほど広くはない。
 芸術が日常になり、日常が芸術になるということが話題になることがある。日常のささいな事柄に焦点を当てそれを作品に昇華する制作がある。われわれはそれを見るときあるいは作るとき作品に用いられた日常的な素材や行為に着目する。しかしだからといってかならずしもそれがすぐに「日常が芸術になる」ということをあるいはその逆も意味しない。われわれは短絡によってずいぶんと作品を賤しめることがあり、あるいはそれによって評価しすぎることもある。日常的な素材や行為をただ単に見せたのならばそれはカテゴリー間の移動により新奇に見えただけのこと。たとえばアニメーションは芸術によって発見される以前に既にして優れてアニメーションであった。日用品が用いられているから日常と言ったり、その使われ方が日常ありえないからと言って非日常と言ったり、これではなにも生産的なことは起こらない。
 日常というテーマが重要なのではない。日常だろうが、非日常だろうが、平和だろうが、永遠だろうが、終末だろうが、ひとつの構造に内容が十分に表現されているのかどうか、そこに作品制作における最低限の基準がある。
 アーティストはそのときこの最低限の基準から自由を享受する。内容を十分に表す構造さえつかめば表層的な問題は一旦棚上げされる。必要に応じて身のまわりのありきたりなもので好きなだけ試してみるといい。日常的な行為であろうがスケールの大きな問題を扱うことはできるのである。(田中功起)

【映像インスタレーションという方法】

 作品制作とはそれぞれの局面において制約を受けることがある。だが視点を変えることでそれが制約ではなくなってしまうこともある。映像の制約とは、それが時間を有するため鑑賞は観客を一定時間、拘束することにある。この制約がインスタレーションの方法に影響をおよぼしている。まず上映の方法はいまのところおおむねつぎのふたつに分けることができるだろう。あくまで映画やテレビ番組と同じように上映開始時間を明記することではじまりから終わりまでを鑑賞者に見せようとする方法、あるいはループ状にくり返し上映することで鑑賞者がどこからでも見ることができる方法である。前者に対応したインスタレーションは映像重視の見せ方であるためあまり複雑な構成を取らず、壁面やスクリーンにプロジェクションをするかあるいはモニターを使用したうえでいわばそこに映画館、劇場を再現する。後者は映像を副次的に使用することが多く、インスタレーションそれ自体をひとつの作品として提示する。だがここでわれわれはひとつの前提に容易に気づくことができる。これらはともに鑑賞者にとって鑑賞しやすい環境を作ることを前提としている。いわば鑑賞行為から導き出された方法である。映像とインスタレーションを分かちがたくあるものとして、それをひとつの作品と呼ぶのならば、一定時間の鑑賞者の拘束に配慮するあまりそこから作品それ自体が決定されてしまう選択は本末転倒であろう。
 言うまでもなく制作においてより重要な視点は作品の内容によって展示形態が決定されることにある。さらに作品が鑑賞者をも選ぶということもこのときありえるだろう。作品はそれが多様な読みを許容しているという点で開かれたものであるべきかもしれないが、かならずしもすべてのあらゆるひとを対象とする必要もない。もちろん不特定多数の予測不能な鑑賞者を安易な前提としてではなく内容の一部として含みもつ作品も可能だろうが、反対にある特定の限定された鑑賞者を対象とする作品も可能である。このように考えるとき先の映像にまつわる制約は解消される。そもそもはじめから問題にしなければよいのであるから。たとえば仮にその映像作品が一週間の鑑賞時間を有する内容であれば、仮にそれが特定のグループに向けた上映を目的とする内容ならば、それらに見合った展示方法や形態を考え出せばよい。それが仮に鑑賞に困難をきたすものであろうともその困難さを引き受けたものにのみ開かれている作品というものもわれわれは排除すべきではない。映像インスタレーションによる作品がそれでしか表現できないものとして考え出されたのならば、われわれはいかに実現困難なものであろうとも作るべきではないだろうか。(田中功起)

【プロジェクトとワークショップ】 「1:つまり何が目的なのか」

 生活のなかでは実用的なものが必要とされる。テレビ番組のなかで視聴率をとるもののひとつに生活の知恵をある種の実用的な裏技として紹介するものがある。それは目に見える実利的な効果・効能について話すことである。たとえば腰が痛いひとがいたとする。ならば腰に効く温泉があるから行ってみたらどうかと言うひとがいる。そうしたものと同じ効能である。ある絵画を見ていると数日間で視力がみるみるよくなりますよ、ということが言われたとする。効能という基準においてその絵画は温泉と同等になる。これはかなりうさん臭い事態だ。そもそも作品とは、たとえばそれがかたちなき「関係」のようなものを作品と呼ぶ場合であっても、作品それ自体が目的なのではないか。視力が回復するからとか自らの社会に対する立場を示すためとか明るい未来のためとか、そうした別の目的のために作品ひいては芸術を利用するという考えはどうもおかしい。
 こうした効能についての議論は、社会に役立つ芸術というものについて考えることに似ている。たとえばそれにリテラルに反応するものとして盛んなのがプロジェクトやワークショップをベースにした芸術活動だ。作品を販売可能なものとしてあつかうコマーシャルなアートワールドに対するオルタナティヴな芸術行為として、その活動は欧米だけでなく広く日本でも受け入れられている。地域社会に介入したり複数の人びとが参加したりフィールドワークなどの調査をもとにしたり、それらは継続した計画として考えられている。ただここでも目に見える実利的な効果・効能がすぐさま示されているわけではない。継続したものであるのだから結果はいつも先送りにされる。「つづきはまた来週!」というわけだ。もっとも実際に社会に役立つのかどうかという問いは不毛である。たまたま役立つものもあればそうでないものもある。あたり前だ。また社会貢献という目的のためにしかプロジェクトやワークショップという手法を使わないのであればそれはこの方法論をむしろ矮小化している。これらの行為には、それまでアーティスト個人のなかに閉じられていた制作という行為を広く他者に開放するという側面がある。いわば傍観者を当事者として制作の現場に巻き込んでしまうことだ。そこではもはや社会的効能を問いかける「だれか」もあるいは逆にその場に異物であったアーティスト自身もいない。参加者すべては新しい経験活動の主体となる。発せられる問いは問いつづけられ制作は継続していく。個人の経験は複数の参加者の経験へと拡張するだろう。そのときわれわれは実用性を芸術のなかに求めずプロジェクトやワークショップといった方法のなかにその活動それ自体を目的としたもうひとつの可能性を見つけることになる。(田中功起)

【プロジェクトとワークショップ】 「2:魔法の言葉」

 地域社会を巻き込むかたちでなにかしらの芸術活動をはじめようとするとき「プロジェクト」と「ワークショップ」はアーティストにとってもキュレイターにとっても都合のいい魔法の言葉になる。なぜならその言葉には「地域住民が参加する」とか「地域社会のリサーチを踏まえたうえで」とか「子どもたちとともに」といった、社会とのつながりを重視した常套句を忍ばせることができるからだ。だがそもそもそれを望んでいるのはだれなのだろう。地域住民がリサーチを重ねたうえでひとりか複数のアーティストを招き入れることで成立したものならば話もわかる。成功しようとも失敗しようとも当事者の責任なのだから。あるいは仮に外部からの介入であろうがその地域社会が望むことを実現できるならばその行為にも意義がある。プロジェクトやワークショップのなかにはきっかけをつくったアーティストの個人名が結果として忘れられてしまうほどに地域に根付いたイベントもある。だが住民にとってはどこまでいってもそれらは望んだものではなく、大きなお世話であるのかもしれない。
 そうした意義や実用性の問題以前に、ここで問いたいのは活動成果の帰属先である。結局なにをやってもその成果はアーティストやキュレイターがすべて奪い取ってしまうのではないかという問題である。言葉巧みに社会性を謳い、地域社会と芸術を自らのキャリア・アップ(?)のために利用するアーティストやキュレイターも、無意識的な場合もあるにせよ、いる。その活動がアーティストやキュレイター個人のキャリアを強化するためだけの既成事実として使われるのならばそれは芸術の実用性というレトリックを自らの保身のために流用しているだけだ。はじまりがアーティストやキュレイターによる提案だったとしても多数の地域住民の参加によって活動が運営されさまざまな予想外の偶然をすべて受け入れながらその発案者の名前が消えてしまうまで継続したらもはやそれはだれのものでもないひとつの地域活動になる。つまり社会に必要なことを、たまたまアーティストが思いつくこともあるだろう。そこにアーティストのエゴはいらない。地域活動においてはアーティストやキュレイターはむしろ利用される役回りであり、その存在は見えないことが望ましいのだ。われわれはプロジェクトやワークショップという言葉を隠れ蓑にして地域社会を私物化してはならない。(田中功起)

【プロジェクトとワークショップ】 「3:経験していないことはわからない」

 仮によくよく練られたアイデアがあり地域住民や子どもたちとのプロジェクトやワークショプが成功したとする。そこにかけがえのない経験が生まれたとする。たとえばそれは教育実習で中学校・高校に行き実験授業を行ない生徒との交流のなかである種の幸福な瞬間が生まれ別れ際に涙するなんてことに似ている。だがその経験は同じときと場所を共有したからこそ成立するものだ。それはだれしものこころのなかにあるどこかしらで共有された甘い経験だが、蚊帳の外から見たらおきまりのよくあるお話でしかない。言うまでもなく現場で起きていることは現場でしかわからない。
 アーティストが安易なプレゼンテーションを展覧会と称し公にすることがある。プロジェクトやワークショプがありそれらのドキュメントをプレゼンテーションの下手なアーティストが行なえば、なにがそこで起きていたのかもわからない、そうしたことがある。とはいえその活動の成果=残りものと説明文や写真などで「なにが行なわれていたのかがわかった」としてもまずそもそもその経験は共有できないものだったのではないだろうか。だからこそ参加者との交流が必要だったのではないか。プロジェクトもワークショプも共有体験を通して参加者間に新しい経験を起こすことに醍醐味があるのならばその共有不可能な再現不可能なものを展示するという行為はどこに向かっているのだろうか。それはだれのためのことなのか。発表自体が参加者に向けられたごくごく内輪なものであるのならばわかる。そこでは共有した時間を参加者のなかにふたたびドキュメントを通して想起させることができるからだ。しかしそれが広く公にされるとき共有不可能な経験のプレゼンテーションにはそのアーティストやキュレイターにとっての何か別の思惑があるように思えてならない。その思惑としてのプレゼンテーションが結局のところ彼ら・彼女らの成果=キャリアにすぐさまむすびつくものなのかどうかはまた別の問題として、社会や他者との関係を築くことがひとつのテーマであったのならばそんな自分の利得にばかり労力をそそいでいる場合ではなくむしろ潔くプロジェクトやワークショプにまつわる本業の活動にのみいそしむべきではないのだろうか。(田中功起)

【批評の自律性】

 批評はそれが批評であることで批評として自律している。批評という行為は言語によって行なわれることが多い。そのため、作品という「具体物」より高い次元に位置する抽象的営みであると認識されることがある。しかし、それは言語一般に対する誤解であり、また批評という態度に対しての誤解である。言語を具体物として扱えないのならむしろリテラシー能力にこそ問題があるのだし、批評は作品やその他の触覚的対象によっても成される。ではなぜ批評の自律性が問題となるのか。批評が自律しては都合が悪い――何らかの思惑があるのだろう。なお、付け加えておくが、批評が自律している以上、「批評家に何がわかる」は正論である。批評家の職能はわからないことであるからだ(→【批評と芸術】。しかし裏返せば、「批評家の何がわかる」とも言えるわけだし、それ以前に原理的に、あなたのこと(あるいは作品)はあなたにもわからないのだ。

【批評と評論】

 批評とは危機(クライシス)を読み解く目であり、自身の基準(クライテリア)を披瀝するものである。そこで対象とされるものはあくまで作品そのものであり、時には作品を介して付属物としての状況分析や作家論が展開される。また作品に真に対峙するという意味で自律した形式を形成しうる構造をもつ。作品の構造把握が直観的で、言説はおおむねパフォーマティヴ(行為遂行的)なものが多い。つまり批評とは、作品そのものに働きかける行為である。対して評論は試み(エッセイ)としての論説・概説・解説・考察・考証である。よって言説はコンスタティヴ(事実確認的)な形式で書かれ、作家や作品および状況におおむね依存している。自律したものとなることがあまりない。
 上記の理由から、「批評家」は「評論家」と呼ばれることを嫌うが、「評論家」は「批評家」と呼ばれることにさほどの頓着をしない傾向があるように見受けられる。ちなみに「評論」という語は、「批評」に対し美術史上においては比較的新しいものである。後者には、対象に対して批判的な態度をとるというニュアンスが含まれるが、前者にはそれがない。また、漢語に「批評」がない(対応する概念が見あたらない以上)、わたしたちはそれを西洋の文脈で捉えざるを得ないが、カントのいう「批判」に見るように後者には対象を吟味し見分けるというニュアンスが含まれる。

【美術理論と批評】

 批評の眼目は、具体的な作品ないし制作活動の価値について判定を下すことにある。もっぱら、批評家はものをつくらない立場にあるから、自身の理論は主として作品を受けとめ、判断するための理論であるといってよい。そうした理論は作品との出会いの中から生まれ、研究、思索によって育まれ、次に出会う作品のために基準を準備する。ここには、美術理論は批評という行為(実践)によってその真価をつねに問われ続けるという側面が見える。批評は、それを行おうとする主体と対象との距離を前提とするから、主体の基準に対して対象は相対化されるが、同時に対象に照らして当の基準も相対化されるということである。このようにして創出された基準、あるいはその基準を適用した言説は、読者の関心のおおむねが思想内容に向かう場合には(社会的要素を除外する場合には)美学に近似している。このことと近しくあるようだが異なるのが、作品を対象として構築された理論が、当の作品をまったく介さず次なる理論の対象となるというケースである。そこには学究的な価値が見出せるが、作品に対しての価値判断が欠如しているという点では根本的な意味での美術批評的意義を欠いている。

【制作論と批評】

 批評や評論(→【批評と評論】)の中で、制作論は作品の構造分析をともなった方法論として語られる。しかし(理想的には)作家がつねに経験を新たにしているとすれば、ひとつの方法論はすぐさま棄却あるいは更新されてしまう。方法論のたぐいがある種の古さをともなうのはそのためであろう。われわれにとって必要なのは方法論としての軸ではなく、制作をつづけるための作動回路である(→【牽引者としての批評】)。

【作家によるテクスト】

 作家が書くテクストは、それがいかなる理由で書かれたものでさえ、構造的には作品の補完物あるいはひとつの参照項として機能する。それゆえに予定調和の域を出ることがない。
 ここで念頭に置かれているものは詩的な表現でもって自身の制作をはぐらかすたぐいの劣悪な文章ではない。むしろ問題なのは衒学的および啓蒙的テクスト、あるいは少数の作家によって書かれている批評的テクストである。前者の詩的テクストははじめから他者性がない。他者性に自覚的な後者は構造上の参照関係を利用し、自身の作品の正当化のために書かれ得る。もちろん言うまでもないが、シンプルな作品を作り、複雑なテクストを書いたからといって作品が複雑になるわけではない。だが、見るに値しない作品がテクストの性格を介して知的なもの(あるいは正しいもの)として見られることはよくあることである。作品とテクストとの
 この補完関係に当の作家も自覚的なのかもしれない。これは自戒を込めて書いている。作家はそうした構造的癒着をそもそも包含するテクストをいかように書けばよいのだろうか。

【牽引者としての批評】

 テクストの先導にしたがい制作をする作家を考えてみる。この世界に対峙し、それを解釈し、それを制作の基盤とすることはままある。そのひとつとしてテクストが選ばれることもあるだろう。相対的に多くの作家に読まれ、そこからの影響で似通ったたぐいの作品が登場することもある。
 だが、こと批評または評論がその参照テクストになるばあいはどうであろうか。そもそも批評または評論は何かしらの作品分析および解釈をもとに構想される。ならばそれは制作以前の何ものかについて語られるものではなく、あくまで事後的なものとしての作品をその対象としている。作品/制作に先立った制作論的批評または評論は書かれ得ない。つまり批評または評論は、構造としてその批判/分析対象とする当の作品をつねにかならず引用している。その書かれたものを読むわれわれが批判/分析された当の作品にまつわる制作論を手引きとするとき、いわばそれは引用の孫引きとなる。可能性としては「創造的誤読」もありえないことはないであろう(孫引きである以上可能性も大きい)、と留保しておいて、なおかつ、しかしそれは牽引された作家の大半が創造性に乏しい作品を制作する、と言い切っておく。
 事後的な分析はあくまで事後的なものでしかない。作家はそもそもそれ以前の把握不可能な方法論をこそ模索すべきであるし、自らの制作活動をもとにした方法論なり、可能性なりをより信じるべきであろう(→【制作論と批評】)。

【批評と同時代性:状況/現状と作家】

 有象無象を論じる同時代評論が抱える問題は、そこで書かれていた作家が表舞台から消えたあとも、なぜか彼/彼女らを評価していた「評論家」が消えずに安穏とその地位にいることだ。彼らのほとんどが美術系大学にいることにもそれは関係があるのだろうか。必要なのは同時代をとりまとめる評論ではなく、同時代の危機に抵触する批評的な視点である。
 状況/現状を読み解くことが同時代評論には求められているわけだが、それは何ら生産的ではない。状況/現状がただただ分析されるだけだ。時に精緻な状況/現状分析には驚くべき発見が含まれ首肯せざるを得ないこともあるが、問題なのはそこから先ではないのだろうか。作家にとってもっとも重要なことは状況/現状把握ではなく、自らの制作による世界の刷新である。

【批評の自律性2:批評の始まり】

 あらゆるものは相互作用によって生まれるが、それが生成する過程でその依存対象を越えて自律する可能性をもつ。そこに賭けられているものは不連続さである。作品と批評は断絶している。制作者と批評家はともに手を取り合うことはできない。なぜなら制作者には批評家が無用であり、批評家には制作者が無用であるからだ。制作者に必要なものが作品であるのと同じく、批評に必要なものも作品である。
 作り手と作られるものとの関わり合いと同じ構造が批評(家)と作品にもある。作品とは制作者が関わりをもったにもかかわらず最後には制作者とは無縁の存在になる。その時、制作者と批評家は等価である。作品に対して紡がれた言葉が、作品と同等かそれ以上の強度を構造的に保持したとき、批評は自律する。手っ取り早い方法は作品の構造上の不整合を見出すことにある。そして何よりもまず直観的に「否」と言うことだ。整合性を有する作品が必ずしもよいとはかぎらないが、にもかかわらず批評的実践において必要なことはそこを突くことである。そのばあい依存対象を越えて批評そのものが整合性を保ち得る。
 よって問題なのは「批評(家)」とよばれることではない。芸術に触れたときの直観こそが必要なのである。わかろうとわかるまいと、何も臆することはない。門外漢のズブの素人の無責任さでもって、当の作品なり、作家なりを直観的に「否」と切り捨ててしまえばいい。批評(家)精神は、まずそこから始まる。

【趣味と判断】

 ごく一般的な意味での「趣味(好み)」(美学的な意味での詳細についてはここでは割愛する)が判断に結びつくことは批難し得ない。なぜなら、判断とは根本としては「見分ける」(嗅ぎ分ける、味わい分ける、聞き分ける)ことであり、いまだ「評価」には至らぬ段階であるからだ(「価値判断」については→【判断と評価】)。ただし、このような判断であっても、それは対象をではなく判断者を裁く。つまり、ある判断が判断者の思考を逆照射し、その思考が批判の対象となる。ここで問題にされるのは鑑識眼(評価能力)の有無ではない。

【判断と評価】

 そもそもの初めから、「評価」できる者のみが「判断」を可能としている。判断の蓄積によって評価が可能になるのではない。「趣味(好み)」と「判断」の関係はちょうどその裏返しの関係に見えてくる。判断を裏付けるものが趣味であるのではないか、ということだ。しかし、実は「評価‐判断」と「趣味‐判断」の系はリンクしておらず、二つの「判断」の意味はまったく違う。「評価‐判断」の系は意識的な主体という態度をもって構築されている。そこでの「判断」はある意志によって選び取られるものである。一方、「趣味‐判断」の系は、いみじくもその言葉が由来するところの「味覚」における官能検査のように動物的な回路であり、そこでの「判断」は生理的条件反射に近い。芸術の快楽のひとつは観者を「パブロフの犬」にすることであるが、犬には「評価」はできようもない、ということである。
 そして、この「評価」の問題は制作者自体にも大きく関わる問題である。以前、ウィレム・デ・クーニングの未発表作が「発見」されたという報道があった。専門家が調査した結果、デ・クーニングの作品であると鑑定されたのだが、その後、実はその絵は猿に描かせたものだったことがわかった。最近の、ソーカル論文が引き起こした科学者と科学論者とのサイエンス・ウォーズと呼ばれる一連の論争を想起させる事件である。「猿とても興味深い絵を描く」(藤枝晃雄「「政治的利用の芸術」について」『武蔵野美術』114号、41ページ)。仮に「天才」というカテゴリーが、いわゆる「天然」を含意するものであるならば、猿は「天才」となりうる。人間で猿に勝る天然をもつ人間は定義として存在しないだろう。つまり、「天然」で勝負しても猿にはかなわない。だが、猿は作品を「自らの作品を見る(判定する)ことのできる人でもある芸術家として、吟味することはない」(同)のである。制作者は自らの動物的な判断にあまりにも依存してはいけない。人間が自然を超克できるとすれば、それは人間的であること以外にないからだ。

【客観主義と主観主義】

 特定の美術理論や美学などによって準備された客観的基準によって個々の対象を判断したり、社会学や心理学といったより相対性をもった科学的基準によって対象を判断するのが、客観主義批評。観る者自身を作品を受けとめる器とし、そこに発生した印象によって判断を下すのが主観主義批評。単純化すれば、作品(と作者)を強調する客観主義、批評家自身の思考を強調する主観主義ということになる。
 両者は強調の置場によって対立的な立場をとっているように見える。実際、主観主義の批評とほぼ同義に用いられる「印象批評」は、客観主義に対してほぼ蔑称として語られることが多い。
 印象を生み出すレンジの広さと深さ、感受性と精度を条件として、個人の印象もまた「基準」には違いないとしても、これは基準の信頼性に端を発する見方である。ただし、相対的と信じられる基準への盲進的な追随にも歪みが生じる。相対主義=客観主義が実際には主観を完全に放逐しえないことが問題なのではない。真の問題は、そのことに無自覚であったり、主観を放逐しえたと純朴に信ずることである。主観に対する最大の批判はもっとも主観的な領域からしか生じ得ないというパラドックスに、わたしたちはつねに付きまとわれている。
 この傍らで、わたしたちは今まさに、主客の対立を通過して生まれた全面的批判――たとえば日本における「美術」という概念の見直し――に直面している。美術批評がそもそも「見える」対象を「読める」対象にする行為であったことを放棄してしまうなら、その時、作品と批評との断絶は今度こそ決定的なものとなるだろう(→【批評の自律性2】)。

【批評と相対主義】

 もちろんあらゆる価値は相対的である。ならば批評においていかなる立場をとろうともそれは批評家の自由である。だが、批評には一般的に尺度としての価値判断が付きまとう。そして、判断は主体によってなされるからそこに責任が生ずる。“はいたツバはのみこめねぇ”(ムーンライダーズ)。批評にはこの二面性(相対性と倫理性)があるのだが(批評の「権力性」)、ここで忘れてはならぬのは、その主体が負う責任を批評家がもし真っ当に引き受けるのなら、他との関係において現われる相対性について心配をしている暇はないし、冒頭に述べたようにあらゆる価値が相対的である以上、そこであえて「発話する」=「立場に身をおく」ことを自らは相対化しえないということだ。発話できないのならば、当然だが沈黙するほかないだろう

【批評の自律性3:作品と言葉】

 優れた作品に値しない言葉、感心しない作品に過分な言葉。いずれも作品と批評との不均衡を示しているが、これが批評は作品を言語に訳出する行為であるという理解を示しているとするなら、それは誤解である。批評には視覚的(聴覚でも嗅覚でも触覚でも)要素を言語に置き換えるという側面があるが、それは真に批評的な内容の前提である。つまり、作品の判断と評価についての(仮)説の構築、並びにその裏付け――この点で、批評はひとつの創造的活動である――にどれほど言葉が精選されるのかというのが、冒頭の作品と言葉との均衡を表す文言の意味ととらねばならない。ときに批評は対象となったはずの作品を必要とせずに享受され得るというのは、その批評が十分に作品記述を行っている(作品を見たような気にさせる)からではない。

【批評の成果】

 もしかすると、批評は存在せず、批評家がいるだけなのか。そう言いたい欲求に駆られる。つまり、批評家の業績は比較的明解だが批評そのものの成果というのはどうもわかりにくい。前者については、理論の構築と実践といった学究のレベル以上に、作家・作品の正当な評価と位置付け、優れた作家を見出すこと、ひいては世に出すこと、新たな美術動向の牽引者となること、そして美術そのものの啓蒙活動と、社会的な(あるいは社会的認知を受けた)業績がむしろ頭に浮かびやすいだろう。
 注意したいのは、批評家の数は思いのほか限られているにもかかわらず、メディアを通じてそこから多量の批評的言説が流布している点である。一般には、研究者による言説によってよりも、批評家の言説によって影響を受けることの方がより多い。その割に、批評の機能や成果について精密な議論がなされないのは、いまだ批評そのものに対しては、個人の批評観を圧倒的に超越する判断基準が存在しないからかもしれない。
 だがそれをも包含して言えるのは、批評そのものの成果は「よい批評文」であるということではないか。優れた書き手の残す凡百の批評文の存在を、凡百の書き手が偶然に残す優れた批評文の存在を認めるとするなら、批評そのものの価値とは、テクストそのものの価値である(→【批評の自律性3】)。付け加えるならば、これは批評の「文学」としての価値をも示している。

【媒介者としての批評】

 作品、作家と受け手(社会)との繋ぎ手としての批評の機能。キュレーション、マネジメントやプロデュースといった活動と重なり、一般にはこの認識がもっとも大きいと思われる。
 批評が媒介としての役割をもちうるのなら、それは作家や作品に向かう道しるべとしてであり、作品の付帯物としてではない。ときに道しるべが古くなっていたり、向きが変わっていたりすることに腹をたてるのは当然である。しかし、道しるべであっても批評は単に「情報」なのではなく、すでに個人の中で連鎖や補足の行われた「知」の一種であるから、一個人のつくった道しるべ、そこにある善意(や悪意)は、作品そのものの享受とは切り離して考えねばなるまい。批評に唯一真正の「正解」はない。同様に完全なる「不正解」もないが、「不整合」はある(→【批評の自律性2】)。それを判断する能力が読み手に求められるのも、一部には批評の甘えとされているのだろうが。

【批評と同時代性2:批評の賞味期限】

 美術史に対し同時代性を強調される批評であるが、それは対象が現在であることに留まらない。同時代的な意義が求められる点はもちろんだが、大まかに批評的活動と括られるものについて言えば、即効性、非持続性が際だつ場面が多いことには驚かされる。新聞にレビューが掲載された翌日には展覧会の入りが増すという事実の一方で、とある作品評価の数年先は保証されていない。主としてメディアとの関係の中に浮かび上がる問題である。
 批評者個々がもつ基準(クライテリア)が更新され続ける(→【美術理論と批評】)ことに考えを巡らせれば、批評は一種「古びる」ものである。何もないところに問題をつくりだす批評の作法からいっても(→【批評と芸術】)、その問題の重要性に最初の意義が認められる。「時評」が読み継がれるかどうかはここにかかっているし、批評が美学に近づくというのもこのためである(→【美術理論と批評】)。

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